主屋、書院は北北東の永平寺を遥拝し、正反対方向の南南西には屋敷に隣接する赤野井別院大恩寺(東別院)を拝し、両寺に祈りを捧げている。主屋と書院北の池庭は永平寺の聖気を取り入れるためにある。主屋、書院の東方向には鏡山があり、かつて周囲が水田だった頃は書院東側の庭先に鏡山とその南隣の三上山が見え、建屋が遥拝する鏡山と、その右隣りの三上山から流れてきた聖なる枯山水を庭に流れ込ませ、信仰山の聖気を取り込んでいた。現在は主屋と書院の北側に流れる川の水位変化で川水が池に流入せず、池は枯れている。屋敷周囲の水田が住宅となったので北と東の両庭共に借景山を失っている。庭池については川水の取り込み口に土のうを積み、池底にハンゲショウを植栽し、池が窪地となっている。池庭の本来の姿は和歌山県、旧中筋家住宅と同じく、深く掘り込んだ大きな穴のような池に下へ下へと向かう水を流し入れ、水面と天空との間に風すら介在しないことを見せる庭であった。天は上に上にと上昇するもの、水は下へ下へと流れていくもの。全く逆方向に進むものなので、一見、交わることのない不自然な関係に見えるが、天から雨が降り水の流れが作られるように、天と水は進む方向が違うだけで自然な関係にある。上に上にと目指すサラリーマン社会の武士と、田畑を守ることを第一とする農民との関係を見せる庭である。武士と農民は目指す方向が正反対であるが、武士は農民が作る米に依存し、農民は武士が作る安全、安定した社会に依存している。お互い背を向け合って生きている者ではあるが、そのほうがむしろ自然で、住む世界を違えた方が自然な関係となる。武士と農民との間に入る大庄屋は農民代表でありながら、中刀を所持する武士の末端者であり中途半端な立ち位置にある。その大庄屋に武士と農民との関係を良好なものとすることを考えさせるために作られた庭で、おそらく淀藩が作ったものだろう。武士と農民が争い、どちらかが勝つ、負けるということは愚かなこと。争えばお互い傷つき、争うほどに傷が深くなり、利が遠ざかる。争いが終わっても禍根が残る。争いが起きないように常に思慮を重ね、対策を取っておかなければならない。もし両者間に矛盾が発生したら、大庄屋は真っ先に両者の利害の折り合い点を読み取り、争いにならないようにしなければならない。それを表現し、常に大庄屋に両者への思いを至らせるための庭だ。現代は一見、平等な世界であるが、社会機構は封建時代と何も変わっていない。軍隊においては士官と兵隊、政府においては官僚と一般公務員、会社においては経営者と従業員。お互いに目指す方向は異なるが、両者間での争いは絶対に避けなければならない。書院東庭も現代人に通じる庭で、人類共通の信仰対象は山であり、信仰山から流れて来た聖気で心を満たすことが最も幸せなことである。それらを見せる当屋敷の庭は封建時代の思想と現代思想が共通していることを語っている。池の水取り入れ口付近にはアラカシ、シラカシの大木があり、日陰で美しく育つアオキ、ヤツデ、山奥で育つアセビがあるので山中を表現している。主屋の傍には赤い実を付けない雄のクロガネモチの大木があり、季節を感じさせるサツキ、ツツジ、クチナシ、カエデ、ツバキ、ナンテンが散りばめられている。庭の東北隅には社があり魔除けと神の降臨を表現している。特筆すべきは池対岸の石で固められた築山に育つ龍を模ったマツの頭が流水池をのぞき込むような形となっていること。あたかも龍が流水面を覗き込んでいるようで、領主が当地の領民を見つめているようでもある。当地は領地が分散していた淀藩領だったので、流水が表現する農民達を見張っているような形のマツから、こちらの大庄屋は年貢米の管理だけではなく行政の一端も担っていたのだろうと思った。庭を囲む東側の塀が低く、北側に塀は無いので、主屋と書院から周囲が見渡せる。屋敷内にいる大庄屋、或いは定期的に大庄屋を訪ねる淀藩の藩士が屋敷周囲の水田で働く農民と目を合わせ、心の交流ができる形になっている。庭周囲の借景山は失っているが、大きく手が加えられていない庭なので、心の交流を大切にしていた江戸時代を十分に感じることができる。現代人は行き過ぎた平等思想、権利の主張、自己主張思想に惑わされ、組織内で自らの役割を果たすことと、自らの心が発する欲望、恨み、妬み、苦悩、怒り、愛情を混在させ、社会生活に支障を来たらせていることが多々ある。社会や組織が目指すものと、自らの心が目指すものとは別々であることは自然なことで、社会や組織と自らの心とは干渉し合わないようにすることが生きる上で肝要だ。士官と兵隊、官僚と一般公務員、経営者と従業員とが交わることは不可能だが、両者を結び付けられるのは心の交流、お互い思いやることで結びつくことができる。心のレベル差はあれど、心の交流に上下関係は無いと思う。庭に画かれている先人の知恵から学ぶことは多い。