グーグル航空地図では判別つきにくかったが、春雨亭はブッダガヤの大菩薩寺を遥拝しているように見える。春雨亭から見て庭内の三尊石がブッダガヤの大菩薩寺遥拝目印のように思えるが樹木が茂っていて確定できなかった。潜淵館付属茶亭は園内移築されたせいか遥拝先を持たない。園内レストランが(福岡県大島)宗像大社中津宮に向いているので、春山公の性格と暮らしぶりを見せていたはずの明治時代に撤去された潜淵館は宗像大社中津宮を遥拝していたはずだ。現在、園内に宗像大社中津宮を遥拝する建屋はレストランのみとなっている。当園は明治維新の2年前、伊達宗紀(春山公)が隠居後に過ごすため作られた。しかし大名庭園の特徴である藩民と心の交流を行う部分が見当たらない。かつては庭園西と南側は干拓水田だったので見晴らしが良く、周囲の山々、水田を借景としていたはずだが、今は北、西、南の三方に小中高校が建ち、三方の樹木が大木になり三方向の借景を失っている。東のレストラン建屋上空が開いているので庭の西から東を見ると鬼ケ城山系が借景となっている。庭の一部から北の宇和島城天守閣が見える。大名庭園の特徴を感じるところは借景が見える場所、池の周りを歩くと対岸を歩く人が近くに感じるので園内で遠くの人と一体感を得ることができる所、伊達家は藤原鎌足を祖に仰ぐので、太鼓橋の上り藤、野田藤棚で藩主の祖を示している所、庭石、竹林で春山公の嗜好を示している所だろうか。庭の借景となっている鬼ケ城山系の尻割山山頂から宇和島市内を見ると当園の南側が宗像大社辺津宮の遥拝目印、当園の北外側が宗像大社中津宮の遥拝目印、宇和島城の式部丸あたりが宗像大社沖津宮の遥拝目印となっている。
園内を見ると大多行松側から陰石、陽石がある半島に渡る池の中の飛び石が宗像大社沖津宮を指し示している。白玉上り藤の太鼓橋が指し示す先、枯川の指し示す先はグーグル航空地図で判読できなかった。遥拝先をほとんど持たない庭となっても庭が潰されなかったのは神の通り道があり、庭池が神が遊ぶ池になっているからだと思い、グーグル地図上に線を引いて見た。特筆すべきは藤原鎌足を祭神とする(奈良)談山神社本殿と(宮崎)高千穂神社本殿を結んだ線が庭池を通過したこと。このことから1672年(寛文12年)伊達宗利がこの神の通り道の下に浜御殿を作ることを決めたと推測した。(香川)金刀比羅宮と(鹿児島)霧島高千穂峰山頂近くの霧島岑神社元宮を結んだ線は宇和島城天守閣の近く、そして当園中央を通過した。金刀比羅宮は広く、高千穂峰山頂付近には天の逆鉾もあるので、霧島と金刀比羅宮を往来する神々の線下に庭池がある。宇和島城天守閣と(鹿児島佐多岬)御崎神社を結んだ線は当園の東を通過した。このように複数の神の通り道が庭で交わっており、往来する神々が宇和島城と当園の庭池に立ち寄る形となっているので、この庭池が潰されなかったと思った。枯川は鬼ケ城山系からの水が流れて来て庭池に注ぐように見せている。見晴らしの良い庭だったのに、現在は一部の借景しか見えないため美観を下げている。剪定すれば借景山が見える部分もあるので、その部分の剪定を行い、潜淵館付属茶亭を、宗像大社中津宮を遥拝するように向きを調整し神を茶亭内に取り込むようにすればどうかと思った。