この城が近世城郭に整備される前、1568年(永禄11年)毛利氏の伊予出兵で小早川隆景が攻め落城させた。1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国攻めでも、小早川隆景が再び攻め落城させた。二度の血なまぐさい歴史を持っている。慶長の役から帰国した藤堂高虎が大洲1万石を加増され入城し城郭整備を開始した。その後、1609年(慶長14年)脇坂安治が転封され造営を続けて城を完成させた。藤堂高虎、脇坂安治両名共に戦国時代を駆け抜けた血の匂いを持つ武将だ。そのせいか天守閣、櫓の遥拝先は仏教色が濃い。天守閣、高欄櫓は三蔵法師玄奘がインドから持ち帰った経典を翻訳した(中国西安)大慈恩寺を遥拝している。暗り門跡の石垣はブッダガヤの大菩薩寺を遥拝する向きに組まれているので、暗り門の櫓はブッダガヤの大菩薩寺を遥拝していた。台所櫓、苧綿櫓は(中国洛陽)龍門洞窟方角を遥拝している。この方角には白馬寺、嵩山少林寺もある。天守閣を見ていると大仏のような大坂城天守閣を連想してしまう。(宮崎)高千穂神社本殿と氣比神宮(けひじんぐう)本宮を結んだ線は天守閣を通過した。この線下に天守閣を設けたことが読み取れたが、建屋の遥拝先を日本国内に求めていないことがこの城の特徴となっている。連敗城の大阪城と同様に、この城は攻められて持ちこたえることができない地勢にあるので、捨て駒として戦う城として設計し、天守閣、櫓を仏教の聖地に向けたのではないだろうか。現在は外堀、内堀共に埋められてしまい、かつての姿はないが、肱川と内掘に囲まれた本丸、二の丸の頑強な城郭部と、不完全な外堀で囲まれた三の丸からなる城だった。城の南から攻めさせ、城内三の丸で迎撃する構造になっている。易経に当てはめると防衛の際は「13天火同人」志を同じくする者同士が揃っている城。反撃する際は「25天雷无妄」人力の及ばぬ強大極まる力を持つ城。二つの顔に変化する城だったと推測した。