青岸寺

永平寺礼拝庭

庭の真ん中に立派なマツを配した亀島(蓬莱島)がある。亀島には先が尖った立石を中心とする火が燃え上がるような石組みがある。奥に同じく先が尖った火が燃え上がるような三尊石石組みがある。二箇所に大きな炎のような石組みがあることで、庭の石の全てが火のように見える。人の体は微動しているので、いくつかの立石を同時に見ると石が微動しているように見えてくる。庭を集中して見ていると石組みが炎のように見えてくる。枯瀧の石組、護岸石組、石橋さえも大きな炎の一部となってくる。枯れ水の流れを表現するスギゴケ面は大雨が降れば池となる。池である期間は短く普段は枯水流となっている。スギゴケ面が池となった時は水の上に火を見せ、水が引くと地の上に火を見せる。近代まで教養ある方々は複数の陰陽の組み合わせから物事はなりたっていると考え、陰陽を基に物事をデジタル的に記号化していた。それが易経である。この庭を易経にて当てはめると、庭に池がある時は易経64卦中の「水の上に火(第64、火水未済)」となり、水が引きスギゴケ面(地面)となった時は易経64卦中の「地の上に火(第35、火地晋)」となる。「第64、火水未済」は水の上に火あるので、有るべきところに有るべきものが存在しない象、未だ済んでいない意となっている。「第35、火地晋」は地の上に火(日)があるので、地上に昇った太陽が象、公明正大が意。「第64、火水未済」と「第35、火地晋」の易の形は上下に並べた6本の爻(こう)の内、下から二つ目の爻(こう)が陽(─)か陰(- -)かの違いだけ。「第64、火水未済」の下から二つ目の陽(─)の爻を陰(- -)の爻に変えれば「第35、火地晋」となる。雨が降り庭に池ができた時は実力を蓄え時期を待ち、公明正大な時が来ることを待ち、晴れて水が引けば公明正大な時が至ったと教えてくれる。雨による池水の出現と消滅とで大きく意味を変えるのがこの庭の特徴だと読んだ。現代人は陰陽を学ぶことがないし、占いに判断をたのむような恋はもともと実現不可能な恋で、占うこと自体がナンセンスだと知っているので、易占を迷信と断定しがちだが、中国の長い歴史の中で育まれた陰陽思想を基に発展した易経の象と意は庭に表現されていることが多い。庭の奥深さは易経表現から来るものが大きい。この庭は易占64卦中の「第64、火水未済」と「第35、火地晋」とを明確に、判り易く表現し、庭に池ができたら活動を止め晴天を待て、池が消えれば公明正大な時が来たと告げてくれる。この表現法は特筆すべきで、易経の形象を現代庭園に取りいれる価値は大きいと思う。次に遥拝先から庭を観た。前回、彦根龍潭寺庭園の記事でも書いたが、曹洞宗大本山永平寺、法堂・仏殿・中雀門・山門の中央を結んだ線を南に伸ばすと当、青岸寺(曹洞宗)に至る。つまり永平寺の多数の仏像の目線が当寺にピッタリと当たっている。そして当寺の本堂、書院も永平寺にピッタリと向いている。まるで当寺の本堂、書院は永平寺に向い五体投地の礼拝をしているようであり、庭は永平寺に礼拝するためにある。次いで本堂、書院が東西方向に向いている先を調べると、東方向1.87㎞の蓮華寺(れんげじ)本堂にピッタリと当たった。蓮華寺は南北朝時代、足利尊氏の寝返りにあった北条仲時以下432人が自刃した寺で、真っ赤な鮮血が川となったと伝えられている。当、青岸寺の庭の東側に池のような大きな蹲踞がある。これは東方向の蓮華寺に鎮魂の祈りを捧げるためのものだと推測した。秋、カエデなど赤い葉が池の上に浮かべば血の色をした池となる。余談になるが蓮華寺の本堂は当寺に向いておらず浜松城、岡崎城方面を向いている。そこで蓮華寺本堂中心と浜松城天守閣中心とを線で結ぶと岡崎城天守閣中心を通過した。通常なら蓮華寺の本堂と参道とを、両天守閣を遥拝する向きに合わせるところだが、河内源氏の棟梁、足利尊氏に裏切られ432人が自刃した寺であるためか本堂と参道はその方角から4~5°南にずらせて建ててある。蓮華寺本堂の西南方向は90㎞先の剣(布都御魂剣)をご神体とする奈良石上神宮にピッタリと向いていた。庭に目をやると平たい礼拝石の先に亀島の中心石の頂点があり、三尊石石組みの中央石の頂点がある。三尊石の右側の二つの石灯籠の火袋が礼拝石に向いているので、礼拝石から二つの中心石の頂点を目印として、三尊石の先に聖地があることを示唆している。グーグル地図だけでは正確な判定ができないのでもどかしいが、永平寺は、白山権現を永平寺の守護神・鎮守神としているので、庭から永平寺安泰の祈りを捧げるために白山遥拝ポイントに礼拝石を置き、亀島の中心石と三尊石とを遥拝の目印としたと推定した。白山は御前峰(標高2,702m)・剣ヶ峰(2,677m)・大汝峰(2,684m)からなるので三尊石の数と一致する。よって三尊石は白山を模したと推定した。当寺から白山御前峰までの距離は約103㎞、当寺と白山最高峰の御前峰とを結んだ線上において、当寺から約54㎞地点、2.7㎞西北に能郷白山(のうごうはくさん1,617 m)がある。遥拝ポイント(礼拝石)から見て白山御前峰と能郷白山は4度ほどの角度差なので、亀島中心石は能郷白山を模したものだと推定した。三尊石の石組みを白山とし、亀島の中心石を能郷白山とすることで、三尊石・亀島中心石の左側、築山上のどっしりと座った大きな石を永平寺としたのではないだろうか。これら石の配置は当寺から北方向の三者の位置を表示したものだと推定できる。グーグル地図では樹木の影で判別つきにくいが山門、鐘楼は総持寺祖院を遥拝する方向に建っているように見える。山門から南に伸びた参道はその端の「金比羅神社」「集寶稲荷神社」で90度近く曲がり西に伸びている。この西に伸びた長い参道の東の端「金比羅神社」を起点として参道に沿って線を西に伸ばすと韓国桐華寺に至った。彦根龍潭時は西に少林寺を、彦根清涼寺は西に五台山を遥拝していた。国外聖地遥拝の共通点がある。庭がとても綺麗に手入れされている。その手入れのおかげか凄く美しい。庭の地面はスギゴケで覆われ、山が迫っており、土の匂い、水の匂いがする。庭の片隅の小さな井戸、庭の東側の池のような蹲踞が地中につながっていることを連想させる。やはり燃え上がるような火を表現した石組みが目を引く。山裾を利用しているので多くの樹木が揺れるのが見え、樹木の間を風が通っていることを感じる。庭の上を見上げれば風で動く雲が見え、ポッカリと開いた虚空の青空が見える。この庭は五大(地・水・火・風・空)を明確にバランス良く見せているので美しいと感じるのかも知れない。マツ、イヌマキ、ヒノキ、スダジイ、ツツジ、ツバキ、カエデ、ヒイラギなど江戸庭園樹木でまとめられているので落ち着くのかも知れない。山裾を利用した築山に配した石々の傍にツツジの丸刈りを配し庭をリズミカルにしている。この庭の基本は永平寺に向かって礼拝するためであるが、東方向の蓮華寺に鎮魂の祈りを捧げ、礼拝石から三尊石と亀島の中心石を目印に白山、能郷白山を遥拝し、白山に向かい永平寺安泰を祈るようになっている。そこに池の出現と消滅で、易経の64番と35番の象と意を見せるので深みが増している。書院から庭を真正面に拝むことは永平寺の法堂、仏殿、中雀門・山門を真正面から拝むことにつながっている。これ以上の礼拝庭園が他にあるのだろうか。彦根藩は永平寺から送られてきた聖なる気を当寺と龍潭寺で受け止め地鎮したと理解した。