一歩足を踏み入れると、わびさびの茶道文化に包み込まれた文化レベルの高い庭に入ったと感じる。藩主がお忍びで来たときに使った通用門から出る時には日本庭園の真髄を見せられたような思いがする。観光ガイドに案内され、先ずは明治時代に行政の手で撤去された御成門跡に建てられた土蔵と書院との間を通り抜けた。ウバメガシの古木だと思うが樹皮が美しい樹木があり、樹皮のあちこちに細い葉を着生させたのか味わい深くした木がある。井戸の周りのスギ、カヤ、アラカシ、マツなど大木になる木を小さく育て、巨木とならないラカンマキをそれなりの大きさに育て、足元にマンリョー、センリョー、ツワブキを配しているので、一歩入ると手入れが行き届いた庭だと感じさせられる。書院入口にもモチノキの古木だと思うが樹皮のあちこちに細い葉を着生させたのか味わい深い木があった。1792年に建てられた藩主お成りの間(上段の間)を有する書院は松江城天守閣を遥拝している。翌年、久田宗参(1765年~1814年)が庭を完成させた。当時の松江藩主は江戸時代の代表的茶人、松平治郷(1751年~1818年)なので、松平治郷に敬意を表し書院を松江城天守閣に向け、松江城を背にして庭が楽しめるようにしたのではないだろうか。同時期の赤穂藩主は森忠賛(1758年~1837年)で質素倹約、塩田開発などにて藩財立て直しに取り組んでいた。池は岩盤をくり抜いて作られ、垂直状の瀧石組には涌き水が流れている。庭の上に見える(茶室)春陰斎を支える岩盤と石組、山裾を固めるための石組など、岩盤と石組が見どころになっている。上段の間からは池、笹面の築山、築山上のマツ、ソテツが見えるようになっている。岩盤、石組、築山で囲まれた池に中之島があり五重石塔が立ち庭の中心となっている。岩盤をくり抜いた池は大きな蹲のようでもあり、瀧は柄杓で水を蹲に注いでいるようでもある。略垂直の瀧は水の落下を見せるためにあり、水を節度よく沢池に注ぐ様子を画き易経「60水沢節(すいたくせつ)節度ある道」を表現している。水を節度よく注ぎ、節度よく排水することで過不足ない貯水が生まれ池水となる。節度があってこそ池水のように金が貯まり豊になれる。過ぎた節度も良くなく、限度をわきまえるべきことを表現している。この庭を全体的に見るとエネルギッシュで、活動的なので鑑賞者を元気にしてくれる。財政難に苦しみ続けていた赤穂藩主を慰めるために作庭したように感じた。井戸水を上下二か所から取り出せる井戸がある(茶室)春陰斎の露地は簡素で、ワビサビ思想が迫ってくる。ワビは茶室、腰掛待合、垣根で、サビは飛石など石及び地表に長い年月を経て育ったコケ、そして樹木で表現されている。それぞれの場所の環境に適した多くの種類の苔が育ち、ツワブキが黄色い花を咲かせ、秋に赤い実をつけるマンリョウが花の少ない季節の庭に色を添えている。腰掛待合付近の古木となったモチノキ、井戸付近のモッコク、アラカシの古木が歴史を感じさせる。長い年月をかけ手入れが続けられたことでワビ、サビが浮き出して来ていること、これまでに莫大な金がかけられてきたことが感じられる。初冬に庭に黄色い花と赤い実があることで主人の来客者への思いやり温もりを感じる。少し寒くなり始める季節に限って公開されるのは、この時期がこの露地の本質を一番よく感じ取れるからなのかも知れない。久田流家元作の春陰斎は赤穂藩主の菩提寺である花岳寺の本堂を遥拝しているので、藩主のための茶室だったことも読める。ワビサビの中に豊かさを感じるのは歴史があり、莫大な金がかけられ続けていること、主人の思いが込められているからだろう。庭の最上段にある明遠楼は見晴らしが良い。今はビルが建ち赤穂城天守台を直接拝めなくなっているが、明遠楼そのものが赤穂城天守台、本丸御殿跡を遥拝する方向に建っているので、正面に赤穂城、赤穂城までの間に広がる塩田を見渡すことができた。塩田で働く人からも明遠楼が良く見えたので、藩主が藩民を見守り心の交流をするための大名庭園の役割を持っていたことが読み取れる。明遠楼一階の露地に涌き水を貯えた石組作りの豪快な蹲がある。傍らのセンリョウの赤い実が色を添えていた。この邸宅庭園は赤穂藩主の別荘であり大名庭園だと言えると思う。御成門が政府の手でつぶされたが、今に至っても御成門以外は江戸時代そのままの姿であり、いつでも藩主を迎え入れることができるようになっている。このような今に生き続ける大名庭園が他にあるのだろうか。