篠山城

盆地中心にある篠山城から亀岡まで平坦な道が続く。山間を通り抜ける道なのに、じきに到着する。福知山方面にも同じで、篠山城は京都の防衛拠点、西国への遠征拠点だったことが車を運転すると実感する。戦火がなかった幸運城で、明智光秀、藤堂高虎が築いた(奈良)郡山城と同じく明治維新後、城内に学校が、1882年(明治15年)天守台近くに最終藩主家の遠祖を祀る青山神社が創設された。郡山城内には陸軍兵舎が建てられた歴史があるが、歩兵第七十連隊跡は篠山城から1.3㎞離れた所にあり、より平和な歴史となっている。郡山城と同じく守りに優れ、郡山城より野戦に打って出やすく、補給拠点として機能しやすい好戦的な形だ。籠って守るのではなく3カ所の馬出から野戦部隊を繰り出し、城壁からの狙撃と野戦隊にて敵を撃滅する。篠山城周囲の山や城跡に陣取っても篠山城で戦火を交わえざるを得ない盆地中央に位置するので、城に敵を引き付け、敵本陣を手薄にさせ本陣を攻める構えとなっている。本丸を囲む内堀に設けられた犬走にも打って出れる門があり、敵撃滅の仕掛けがされている。代々の藩主、藩士は城防御演習で鍛えられたことだろう。1609年(慶長14年)に築かれた篠山城の縄張りは藤堂高虎(1556年~1630年)が担当した。少年時代に姉川の戦いで浅井軍に足軽(一兵卒)として初参戦、幾度かの失業を経た後、数名の足軽を引き連れる班長クラスの下級足軽頭として織田軍の傘下で戦に出る。1577年(天正5年)~1579年(天正7年)明智光秀の丹波攻めでは篠山盆地西側にある大山城を落城させた実績を持つので、篠山の地理に詳しかったはずだ。それから幾多の戦ごとに勝ち続け、師団長クラス(中将クラス)の武将にまで登った。当築城時には郡山城、猿岡山城、和歌山城、赤木城、宇和島城、大洲城、今治城、膳所城、津城の築城実績を持つ。当城の普請総目付を務めたのは池田輝政(1565年~1613年)。少年の時から父、兄の下で参戦し、1584年(天正12年)父、兄の戦死で美濃大垣城(13万石)城主となり、連隊長(大佐クラス)~旅団長クラス(少将クラス)の指揮官となり、幾多の戦を経るごとに出世を続け軍団長クラス(大将クラス)まで登った。弟と息子の領地を合わせると100万石に手が届く大大名にまでなった。江戸城普請の経験もあり、当城を普請した年には8年にわたる居城(播磨姫路52万石、姫路城)の大改修中を終え、今ある天守閣を完成させている。城攻めを含む戦を知り抜いた両武将の作品が強く、美しくないはずがない。篠山城から西南西方向に直線約8㎞、白髭岳(丹波富士)山頂から篠山城を見て南堀の東南角端が伊吹山頂上の遥拝目印となっている。白髭岳近くの松尾山には明智光秀に敗れた波多野氏傘下の酒井党の城があった。松尾山頂上と伊吹山頂上を結んだ線は篠山城にかからない。篠山城から西北西に直線約6.3㎞、藤堂高虎が落城させた大山城から篠山城を見て南馬出(城内へつながる虎口先端部分付近)が伏見桃山城跡(明治天皇陵)の遥拝目印となっている。明智光秀軍に敗れたこれらの城から篠山城を見て、本丸背後に聖地がないようにしている。篠山城から東南に直線約3.5㎞の高城山頂上(1579年、明智光秀に攻められ落城した波多野氏の本拠地)八上城跡から西北にある篠山城を見て東馬出の中心が李氏朝鮮宮殿(昌徳宮)を遥拝する目印となっている。東馬出の城壁東北角が北京紫禁城(故宮)の遥拝目印となっている。二度の朝鮮半島戦役で奮戦した藤堂高虎が清朝と李氏朝鮮を連想させる遥拝見印を作ったことが読み取れる。北北東方向直線約6㎞先、明智光秀の丹波攻めと無関係の丹波篠山の最高峰、御嶽(修験道場)頂上から篠山城を見て内堀で囲まれた二の丸、本丸をあわせた四角い部分の中心にある大書院が(沼島)自凝神社(おのころ神社)の遥拝目印となっている。御嶽頂上から眺めて神々しい城となるよう大書院の位置決めしたことが読み取れる。神の通り道を調べると(対馬)海神神社と(鎌倉)建長寺三門を結ぶと篠山城天守台、(京都)三千院境内を通過する。建長寺、三千院は南北方向に細長いので、建長寺、三千院の各建屋から海神神社を遥拝することは篠山城遥拝に重なる。海神神社と(鎌倉)鶴岡八幡宮上宮を結んだ線は城壁、堀に平行に南馬出の約100m南を通過し、(滋賀)沙沙貴神社境内、教林坊、名古屋城大天主の北約200mを通過する。出雲大社御本殿と(京都)六条天皇清閑寺陵を結ぶと篠山城天主台、天主台の東南角、(京都)梅宮大社境内の森を通過する。六条天皇清閑寺陵に隣接して高倉天皇後清閑寺陵があるが、出雲大社御本殿と高倉天皇後清閑寺陵を結ぶと、本丸西南角、そして(京都)梅宮大社本殿を通過する。ブッダガヤの大菩薩寺と(比叡山)大比叡(848.3m)を結ぶと大書院北側を通過する。ブッダガヤの大菩薩寺と(千日回峰行の祖)相応和尚墓を結ぶと北側の三の丸を通過する。(中国)少林寺と(京都)相国寺を結ぶと篠山城を通過する。(中国)曲阜孔廟と(京都)二条城白書院を結ぶと南馬出を通過する。(スサノオが海を渡り坐したと伝わる牛頭山と推定する位置の韓国)洞華寺と(京都)東福寺方丈を結ぶと天守台、そして(京都)東寺を通過する。東福寺、東寺から洞華寺を遥拝すれば篠山城天守台も遥拝される。(対馬)和多都美神社本殿と(安土城跡)総見寺三重塔を結ぶと、天守台、貴船神社本殿すぐ南を通過する。天守台は和多都美神社と貴船神社の神々が往来する線の下にあるだけでなく、上述のように多くの神佛の通り道が交叉する地点にあるので、天守台は神域そのものだ。もし天守閣を建てれば姫路城天守閣のように美しいものになったはずだ。天守閣を建てなかった郡山城天守台は応神天皇を権現させるよう若草山山頂と応神天皇陵を結んだ線上に作られ、古墳のような形としていた。それに対し篠山城天守台は風を感じさせ、風を切るような形をしている。多数の神佛の通り道が交叉するので、風に乗って移動する神々を降臨させる奉納の舞の舞台に見せるよう天主台のみとしたのだろうか。天守台は男性的美しさを持つので、神が権現するとすれば男性神スサノオ、オオクニヌシだと思う。もし天守閣を建ててしまうと天守閣があまりにも美しく神々しくなるので、この城本来の戦略目的を逸脱してしまう恐れがあると判断し、天守閣を建てなかったのだろうか。いずれにしろ天主台は美しい。東西方向の城壁ラインは西に概ね(対馬)海神神社の方向に合わせてある。東に概ね名古屋城の方向に合わせてある。大書院及び本丸御殿跡は海神神社を遥拝している。海神神社と名古屋城天守閣を結んだ線は篠山城南馬出の南約350mを通過する。海神神社と鶴岡大八幡宮を結んだ線は南馬出の南約100mと通過する。天主台など本丸から南を見ることはこの両聖地を往来する神の通り道を眺めることになる。これまでの庭鑑賞経験から建屋と並行する神の通り道を持つと空は美しくなる。篠山城全体を海神神社方向に向けたのは遥拝により城を美しく見せるためだけではなく、当城を大陸から侵攻された場合の防衛拠点と、名古屋城に向けたのは援軍が尾張徳川から来る意をもたせ、清朝と李氏朝鮮へのメッセージを込めたと推測した。南北方向の城壁ラインを見ると、本丸から東の城壁ライン、大書院、本丸御殿跡、天守台のラインは南の(和歌山)根来寺大塔方向に合わせてある。城西側の城壁ラインは北の籠神社本殿へ合わせてある。籠神社本殿と根来寺大塔を結んだ線は篠山城東馬出の東約2kmを通過するので、南北両聖地の神仏の通り道に城はかからないが、城全体で南北の両聖地を遥拝している。東に名古屋城を、西に海神神社を、南に根来寺を、北に籠神社を遥拝しているのでそれぞれの馬出から出撃することはそれぞれの聖地を背にし聖地に向かうことに通じる。これほどまでに遥拝と神の通り道にこだわった日本民族だが明治維新と共にそれを非科学的として捨て去ってしまった。しかし遥拝と神の通り道は石垣だけとなっても美しさを輝かせている。明石城のように石垣の上に白い土塀と二つの櫓を復活させれば姫路城クラスの美しさが復活すると思う。東西方向に細長い篠山盆地の中心にある城で、東西方向に流れる風の中にあるように設計されているので、易経に当てはめると西洋の城に似た「37風火家人(ふうかかじん)家を正す」がふさわしい。火が燃えると風が起こり、風はさらに火勢を強める。火縄銃の火ぶたが切られ開戦となれば城内にいる兵が風の如く城内を動き回り効率よく防衛にあたり、火炎の如く攻め出て来る。平時においては女性があるべき位置にて務めを果たすことで家庭が整い明るく温かい家ができあがるように、内に整った城であることを見せている。姫路城と同じく芸術的だ。兵庫県は多くの名城に恵まれている。