歴戦の武将、蒲生氏郷が築城したので易経「42風雷益(ふうらいえき)益する道」のような、戦機、商機を捉えることの大切さを表現した風貌となっている。風烈しければ雷速く、雷激しければ風激し、戦い(商売)は戦機(商機)を捉え時流に乗り利を得ること。躊躇なき決断によって撤退(損切り)し、大いなる成果をあげるべきことを表現している。この城下から三井高利ら多くの松阪商人が生まれた。神の通り道を調べると(京都)今宮神社本殿と伊勢神宮内宮正殿(左側)を結んだ線は(京都)大徳寺法堂-相国寺承天閣美術館-金戒光明寺境内-禅林寺多宝塔-毘沙門堂門跡境内-(当城)本丸を通過した。この線の両側には多数の寺院が点在する。(福知山市元伊勢外宮)豊受大神社と(伊勢神宮内宮境内)皇大神宮風日祈宮を結んだ線は(京都)糺の森-吉田神社本宮南約20m-真正極楽寺開山堂-大豊神社-(当城)本丸そして御城番屋敷を通過した。(京都)城南宮本殿と伊勢神宮外宮御正殿を結んだ線は桃山城跡-伊賀上野城跡(上野高校)-(当城)本居宣長ノ宮境内を通過した。(京都山科)伊勢神宮遥拝所から内宮正殿を遥拝することは(城内)本居宣長ノ宮境内付近を遥拝することに通じている。伊勢神宮遥拝所から北西方向直線約700mにある南禅寺金地院境内の東照宮と伊勢神宮内宮正殿を線で結ぶと京の伊勢と呼ばれる日向大神宮-(城内)本居宣長記念館を通過する。(京都伏見)御香宮神社境内の東照宮と伊勢神宮外宮を結んだ線は(城内)松阪神社境内を通過する。伊勢神宮外宮及び内宮は広大な境内なので当城全体が京都と伊勢の神々の往来下にある。(奈良)神功皇后陵と(当地)神麻続機殿神社を結んだ線は興福寺別院鶯滝歓喜天-(当城)表門を通過する。(奈良)大神神社拝殿と(当地)神服織機殿神社を結んだ線は(当城)松阪神社境内を通過する。(奈良)三輪山頂上と神服織機殿神社を結んだ線は三輪山の奥津盤座-(巻向山)ダンノダイラの盤座付近-(当地)波弓神社奥宮付近-(当城)本居宣長ノ宮境内を通過する。(奈良)当麻寺曼曼荼羅堂と神服織機殿神社を結んだ線は(当城)松阪神社本殿を通過する。この線の左右100mには三輪坐恵比寿神社(日本最初市場守護神)、大神神社、室生寺などがある。(大阿坂町)阿射加神社と(伊勢市)朝熊神社を結ぶと(当城)本丸を通過する。(小阿坂町)阿射加神社と二見輿玉神社を結ぶと(当城)月見櫓を通過する。(奈良)法隆寺五重塔と(鳥羽市神島)八代神社を結ぶと(当城)本居宣長ノ宮境内を通過する。城下の旧長谷川治郎兵衛家に多くの神の通り道があることを見たが、道を隔てた本居宣長宅跡はそれらの神の通り道の傍にある。更に(福知山、元伊勢内宮)皇大神社本殿と伊勢神宮内宮御正殿を結んだ線は(京都)上賀茂神社本殿すぐ隣の山尾社-上賀茂神社境内伊勢神宮遥拝所付近-本居宣長宅跡のすぐ傍を通過する。皇大神社、伊勢神宮内宮の境内は広いので本居宣長宅跡はアマテラス(天照大神)の通り道の下にある。そのような地にあってこそ古事記の研究ができたのだろうし、本居宣長宅(鈴屋)建屋はまるで神に呼ばれたように更に多くの神の通り道が交差する城内へと移転した。月見櫓跡の東北側の城壁(石垣)、本丸跡東北側の城壁、天守台跡の東北側の城壁は(宮津市)元伊勢籠神社を指し示す方向に合わせてある。月見櫓跡の東南側の城壁と、本丸西北の城壁は熊野本宮大社大斎原を指し示す方向に合わせてある。天守と月見櫓は元伊勢籠神社と熊野本宮大社を遥拝していたはずだ。月見櫓跡と遠見櫓跡を結ぶ城壁は(三重)田丸城跡を指し示す方向に合わせてある。鈴屋近くの城壁は徳川家康の生誕地、岡崎城を指し示す方向に合わせてある。御城番屋敷は上野東照宮を遥拝している。(高野山)徳川家霊台東照宮と上野東照宮を結んだ線は(当城)三の丸跡、松阪工業高等学校-日本最高峰(富士山剣ケ峰)を通過する。(高野山)徳川家霊台東照宮と上野東照宮を結んだ距離は416.3㎞、日本最高峰から上野東照宮までの距離は102.3㎞なので約3:1の配分となっている。このような位置になるよう両東照宮を建立したのは天海しかいないだろう。(伊勢富士)堀坂山頂上から天気の良い日は富士山が見えるが、堀坂山頂上と上野東照宮中心を結んだ線は(富士山)浅間大社奥宮の20m南を通過する。堀坂山(伊勢富士)山頂から富士山を見て最高峰の剣ケ峰3776mと次に高い白山岳3756mの中間くらいに浅間大社奥宮があるので、富士山頂の剣ケ峰と白山岳の中間が上野東照宮と浅間大社奥宮の遥拝目印となっている。この遥拝線も天海が作り出したものではないだろうか。(当城)太鼓楼の左右の城壁は平行になっていない。それぞれの城壁は西南の熊野本宮大社大斎原と熊野本宮那智大社を指し示す方向に伸び、西北方向には(福知山市元伊勢内宮)皇大神社本殿を指し示す方向に伸びている。堀坂山頂上から太鼓櫓跡に向けて伸ばした線を伸ばすと(浜松)秋葉山本宮秋葉神社上社(秋葉城跡)に至るので、堀坂山から見た太鼓櫓跡は秋葉山本宮秋葉神社上社を遥拝する目印となっている。阿坂城跡から見た太鼓櫓跡は(伊勢)二見輿玉神社夫婦岩の遥拝目印となっている。太鼓櫓跡の城壁が上記した遥拝先を持っていること、太鼓櫓が堀坂山頂上と阿坂白跡からの遥拝目印となっていること、当城が多くの神の通り道の下にあることから太鼓櫓を再建するだけで城が見違えるほどに美しくなると思う。御城番屋敷が創建当時のまま生き続けているので太鼓櫓に加え更に月見櫓、二つの櫓を結ぶ白壁の渡櫓を再建すれば、御城番屋敷から見た城は江戸時代の規律ある風景となるだろう。遥拝を意識した江戸建屋は正四角形でないことが多いので櫓の遥拝先を確かめて再建することが必要だ。上記のように多くの遥拝線、神の通り道が交叉する当城は古来の神々と東照宮(神となった徳川家康)の交流地だと読み取ることができる。大阪夏の陣が終わって間のない1619年(元和5年)に当地が紀州藩の領地となったのも徳川家にとって重要な神の通り道が交差する地なので、祈りの城とすべきと判断したからではないのだろうか。幕府が大阪にしたと同様に紀州藩も松阪城の維持と行政に必要な武士のみを配した。そして城下で商業が栄えた。軍人と商人は決断しながら戦う点で似ている。地を這うように進むだけでは成功できない。安定した生活を求める民のために戦うのが軍人であり、民が求める物資を民のために売買するのが商人である。その基本から外れた侵略戦争、略奪的な商取引を行った者は消え去る。正しい戦い、正しい商売をこの城のように力強く行った者にのみ「35火地晋(かちしん)地上に昇った日輪」人々から尊敬の眼差しで仰ぎ見られ、栄誉を得て引き続き力強い前進ができる。松阪城は多くの神の通り道があり城内で交叉しているので神が降臨するようにいくつかの櫓を復活させ、堀を復活させ、正しい道を進むべきことを表現していた本来の城景観を取り戻すことは意義あることだと思う。石垣だけとなった城を見ていると明治政府、昭和政府が美しい城を破壊して回ったことと、侵略戦争、八百長海戦を行って回ったこととが同一線上にあるように見えてしまう。前政府は日本人の心の原点である城を潰して回り、平和を守る愛国心を潰し、国民を脅して間違った愛国心を作り出し、国民を戦争に駆り立て多くの犠牲者を出した。平和な国を目指す現政府は前政府が国民を戦争に駆り立てるために潰した城を元に戻し、本来あるべき愛国心を育てる城の復活努力をしている。それは自然なことだと思う。