平城京東院庭園のように玉石による州浜風景があり、牧歌的な(奈良)旧大乗院庭園のように伸び伸びとした伝統的な貴族庭園がベースとなっている。そこに江戸庭園のシャープな築山、苔面などがあり、冴えた石組技巧が散りばめられている。黒玉石による南池の州浜は七里御浜、王子ヶ浜など熊野灘の渚風景を模したものだと思った。鴨川は賀茂大橋から四条通りまで直線で、川筋中央線を南に伸ばすと熊野本宮大社大斎原に至る。鴨川に略平行に地割りされた京都御所の西側と東側の築地塀、京都御所内の紫宸殿を含むすべての建屋、京都御苑左右の南北方向に伸びる(西は油小路通りから東は東路通りあたりまでの)通りはおおむね南の熊野本宮大社大斎原を指さし、京都御所全体で熊野本宮大社大斎原を遥拝している。仙洞御所の西側の築地塀、醒花亭、又新亭、仙洞御所に隣接する大宮御所の西側の築地塀も熊野本宮大社大斎原を指さしている。醒花亭、又新亭、大宮御所建屋は南の熊野本宮を遥拝すると同時に北の貴船神社奥宮も遥拝している。貴船神社奥宮と熊野本宮大社大斎原を結んだ神の通り道は庭中央近くを通過し、醒花亭から北に庭を見ることは庭を通して貴船神社奥宮を遥拝することに通じている。今は庭の樹木が大木となり醒花亭から北方向に借景は無いが、樹木が大きくなるまでは五山送り火の妙の字が楽しめたはずだ。西の双ケ岡と東の吉田山の間に京都御所が作られているが、仙洞御所の真東に吉田山はなく東山の大文字山(465m)がそびえている。大宮御所は西に(双ケ岡)二の丘山頂付近を、東に(東山)五山送り火の大の字(右大文字)を遥拝している。庭は北池、南池の西側から右大文字を楽しみ、東山から昇る月を楽しみ、比叡山から伊勢神宮遥拝所がある神明山までの東山を楽しむために作ったことが読み取れる。神の通り道を調べると、出雲大社御本殿と(京都)岡崎神社を結んだ線は嵯峨天皇嵯峨山上陵-光孝天皇陵-(仙洞御所)南池の南部分を通過した。(韓国)桐華寺と(京都)岡崎神社を結んだ線は清和天皇水尾山陵-仁和寺観音堂-南池の北部分を通過した。下鴨神社東本殿と石清水八幡宮中心を結んだ線は大宮御所建屋の傍-東寺御影堂を通過した。比叡山延暦寺根本中堂と桂離宮古書院を結んだ線は南池の北部分を通過した。(対馬)和田都美神社と(かつての吉田神社の信仰の中心)斎場所大元宮を結んだ線は天龍寺大方丈-鹿王院本堂-法金剛院庭池-大宮御所建屋を通過した。(沖ノ島)宗像大社沖津宮と斎場所大元宮を結んだ線は(秦氏の氏寺)広隆寺太子殿-北池と南池の間を通過した。(大島)宗像大社中津宮と斎場所大元宮を結んだ線は岡山城本丸-南池と醒花亭の間を通過した。宗像大社辺津宮と銀閣を結んだ線は醒花亭の傍-斎場所大元宮を通過した。仙洞御所近くにある吉田神社は明治になるまで伊勢神宮より地位が上だった。吉田山の大半が境内だったので、江戸時代は今以上に多くの神の通り道があり、仙洞御所は今以上に祈りに包まれていたことが推測できる。大宮御所建屋から吉田神社本宮の少し北が江戸城を遥拝する目印となっている。京都市内は多くの有名寺社に囲まれ、市内にも有名寺社があるので幾多の神佛に見守られた地であるが、吉田神社(吉田山)すぐ近くの京都御所と仙洞御所の庭は、市内の町屋の庭以上に、より多くの神々が降臨する神々しい庭となっている。庭池の周囲に築山を設け、池が窪地にあるように見せているのは借景の東山をより高く見せるためで、借景をさまたげている樹木の枝を掃い、東山の季節、気候の変化をより体感できるようにし、本来の姿に戻す方が、東山に祈りを捧げるための庭に戻せて良いように思う。この借景庭は易経「37風火家人(ふうかかじん)家を正す」が当てはまると思う。家を正しくすれば男は外で正しく、女は内で正しい行いができ、天下が治まる。70人近い子供を産ませた派手な女性関係を持つ御水尾天皇であったが、整った家を表現した穏やかな庭を好み、整った家を作ることをこの庭で表現されたと思った。