大河内(おかわち)城

織田信長の躍進(5)

1569年(永禄12年)年初、織田信長は三好三人衆を撃退し、次いで堺の支配を始めた。8月、信長軍は浅井軍を加え約7万で南伊勢に向かう。名門、北畠具教(1528年~1576年)、北畠具房(1547年~1580年)親子は織田側の調略で北畠親子に反旗を翻した木造城を取り囲んでいたが織田軍が岐阜城を出発したことを知り撤収、大河内城に約8千人が籠り、周辺の城を含めて約1.6万人で信長軍約5万人を相手に50日間防戦した。大河原城は標高103m程度の平山城で、ふもととの標高差はわずか40m程度。よくもこの城で大軍に反撃できたと思う。城内に休墾田があるように、水田が作れるほど水に恵まれており籠城戦に向いている。雨が多い地域で、城周囲がぬかるみとなりやすい利点を生かし防戦したのだろう。8月28日、信長軍は城包囲を完成。翌日、(浅井軍の先鋒として名高い)磯野員昌と池田恒興が攻撃するが損害が出て撤収した。手ごわい城だと判断した信長軍は城周囲を二重三重の柵で取り囲み、兵糧攻めに転じた。9月8日、2度目の攻撃は深夜の小雨の中、織田軍が得意とする鉄砲を使い丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通が搦手門に攻めかかるが、攻撃途中、本降りとなり火縄が濡れ、銃が使なくなり攻撃力低下、逆に大河原城内から鉄砲攻撃が続き損害が出て撤収した。翌日、(北畠氏の本拠地)霧山城下など周囲の居住区に放火、その住民を大河内城に誘導し避難させ、兵糧攻めを加速させる。3度目はマムシ谷から攻撃するが多くの戦死者を出し撃退される。南伊勢侵攻軍には上述の武将以外に柴田勝家、森可成、滝川一益、蜂屋頼隆、坂井政尚、塙直政、前田利家、河尻秀隆、中川重政、(阿坂城を攻撃、落城させるも負傷した)木下秀吉、(南伊勢の北方進撃軍にて参戦し、本能寺の変では織田信忠に従った)斎藤利治、(本能寺の変で織田信忠に従った)福富秀勝、毛利良勝、(本能寺の変で二条城に駆け付け戦死した)菅屋長頼、村井貞成、(妙覚寺にいた織田信忠のもとに駆けつけ本能寺の変を知らせ、信忠と共に二条城に籠り明智軍と戦い、父、村井貞勝、弟、村井清次、村井宗信と一族で二条城にて戦死した)村井貞成ら忠臣が参戦している。少し調べただけでこれだけの忠臣武将の名が上がるので、信長は大河内城攻略にて忠臣たちを団結させる目的を持っていたのではないか、大河内城攻めで忠臣から犠牲者を出したくなく、伊勢神宮の膝下での激戦を避けたく、城内の状況把握のためだけ攻撃したのではと思ってしまう。(前年まで六角氏の家臣で)観音寺城の戦いで信長軍と互角に戦い、戦後、信長の忠臣となった蒲生賢秀、その三男、蒲生氏郷(満13歳)がこの戦いでただ一人抜け駆けし城内に攻め込み、武将の首を取って戻り初陣を飾った。戦後、信長は次女を娶らせる。大河内城は落ちず10月、織田信長と北畠親子は和睦した。和睦条件は信長の次男(織田信雄)を養嗣子として北畠氏が迎え入れること。北畠親子は大河内城を出て別の場所に居住すること。信長は戦闘で負けたが外交で勝ち、大河内城を開城させ南伊勢を支配下に置いた。和睦で両者が共に歩き始めた訳ではなく、北畠具教の画策が続き、7年後、信長は三瀬の変にて北畠氏一族の大部分を虐殺することで滅亡させ南伊勢を完全に乗っ取った。伊勢神宮の膝下で大量流血戦なく、養子縁組にて平和的に南伊勢を手に入れたのに、人々の心に残る虐殺事件を起こしたことは信長の汚点だと思う。この戦いに参加した森可成は金ケ崎の戦い(手筒山城攻め)で初陣の長男が戦死、本人は宇佐山城の戦いで戦死、三男(成利(蘭丸))、四男(坊丸)、五男(力丸)は本能寺の変で信長に従った。坂井政尚は姉川の合戦で長男が戦死、本人は志賀の陣で戦死、次男(越中守)は本能寺の変で織田信忠に従った。この戦いに参戦した多くの忠臣武将たち及びその息子たちは本能寺の変につながっていることを知った。