黒井城・興禅寺(丹波市)

黒井城のふもと興禅寺は戦国時代に生まれた春日局の生誕地と伝わるが、明智光秀と赤井直正が戦った黒井城と興禅寺に戦国の雰囲気はなく、洗練された女性美がある。黒井城が明智光秀の手で落城したのは1578年(天正6年)、春日局が生まれたのが天正7年、本能寺の変が天正10年、黒井城の廃城が1584年(天正12年)、それに対し150m下ったところにあった誓願寺が名を興禅寺と変え、現在地に移転したのは家光が将軍に就任した3年後の1626年(寛永3年)なので、春日局伝説を作るために斎藤利三の屋敷跡を再整備し、本堂など建屋を建て、黒井城を観光整備したと読んだ。ここは徳川家の威信をかけて創設した春日局テーマパークと言ったところではないのだろうか。戦国時代に蓋をした境内と庭を見ていると春日局は明智光秀の娘で、家康の隠された側室となり、息子が家光であるという説が作り話ではないと思えてくる。明智光秀と戦った赤井直正は徳川家と同じ河内源氏の子孫である。徳川家が赤井家の奮闘を讃えて城跡を観光整備して当然のことで、直正の子、直義は明智光秀の弟子のような藤堂高虎に仕えた。記事に上げた(伊賀上野)赤井家住宅は美しかった。家康が満50歳になる直前頃、突如、天海が政治舞台に現れるが、その2年後に生まれた徳川義正が尾張徳川家の祖、義正より1歳年下の頼宜が紀州徳川家の祖、頼宜と同母の1歳年下の頼房が水戸藩の祖、更に頼房より1歳年下の家光が3代将軍となっている。天海が出現してから家康が次々と子作りし、その子供たちが徳川家の後継者となった。徳川家後継者決定に天海が関与していたように見えてしまう。先ずはグーグル地図で当寺の建屋(楼門を除いた本堂、庫裏、鐘楼など)及び高石垣の遥拝線を調べた。これらは西に(大山)大神山神社奥宮を東に(坂本城跡)東南寺を遥拝していた。大神山神社奥宮と東南寺境内の(坂本城の戦いを供養する二つの首塚の間にある)地蔵菩薩像を線で結ぶと当寺本堂の中央を通過した。本堂など建屋は大神山神社奥宮と東南寺を遥拝し、高石垣はその両聖地を指し示している。近年、庭先に置かれた菩薩石像はこの線に掛かり、大神山神社奥宮を背後に、(大津市)東南寺地蔵菩薩像に向いている。この遥拝線から明智光秀が起こした本能寺の変で犠牲になった人々を供養する宿命を当寺は負わされたと読んだ。尚、この神仏の通り道の両側には多数の小さな寺社があり、親鸞を得度させた慈円(和尚)廟もある。大神山神社は智明権現と称される。坂本城は明智光秀の居城であった。明智を逆さ読みした地と、明智光秀の犠牲者が眠る地を結んだ線下にある当寺の本堂など建屋が、その線に沿って建てられたことが偶然であるはずがない。光秀の犠牲者を弔うと共に光秀の行為を肯定するためにこの線に沿って本堂などを建て、春日局の聖地にしたと推測した。本堂など建屋は南に(明石)岩屋神社を、北に(明智光秀が最後にガラシャと会ったと伝わる天橋立にある)智恩寺を遥拝している。岩屋神社本堂と智恩寺文殊堂を結んだ神の通り道には明石城-東奥峰城域-当寺庫裏-黒井城域-豊受大神社(元伊勢外宮)境内-福知山城伯耆丸付近がある。この立派な神の通り道付近には多数の小さな寺社が点在する。明石の「明」と智恩寺の「智」から明智が連想できる。これら東西方向と南北方向の神仏の通り道が庫裏で交叉していること。本堂など建屋が明智の名を連想させる東西方向と南北方向の神仏の通り道にあり、それぞれを遥拝していることから基本設計と築庭案を作ったのは(明智光秀につながる)天海以外にいないだろうと推測した。楼門(山門)は本堂など建屋と少しだけ違う向きに建てられていて、北に(明智光秀が築城した)福知山城天守を、東に(出世城と呼ばれた)浜松城天守を遥拝している。黒井城の天守跡付近は非常に美しいので神仏の通り道があると思い調べると(比叡山)明王堂付近の弁財天と(韓国)洞華寺とを結んだ線が本丸を通過した。(比叡山)元山大師御廟と出雲大社本殿を結んだ線が東曲輪跡付近を通過した。 (比叡山)延暦寺根本中堂と(大山)大山寺を結んだ線が東曲輪跡の少し南を通過した。周囲の美しい山々を見渡せる本丸から東曲輪跡にかけて戦いがあった山城という雰囲気がないので興禅寺を整備した際に、観光用に黒岩城も整備したと思った。本堂側から見た庭は山を借景としたもので、現在は黒井小学校の校舎と樹木が借景山の前に立ちはだかり、本来の庭ではなくなっているが、遥拝線から庭を読み取ると、明智光秀に従い犠牲となった方々を背後に、大山を遥拝する庭で、目前の借景山は大山を連想するためにある。借景山を高く見せるために池を深く掘り込んでいる。更に明智光秀の行いを基に、春日局が飛躍する姿を庭に書き込んでいる。池の中に潜む龍が雷に乗じて風に乗り天に舞い上がる風景になっている。正に春日局が家光の乳母となり飛躍する直前の情景だ。庭の石橋が指し示す先には鳥取東照宮がある。龍となった春日局が飛んで行く先は徳川家康という意味なのだろう。鳥取東照宮の創建は1650年(慶安3年)なので、この石橋は後付けしたものだろうが、鳥取東照宮を指し示す石橋は春日局が徳川家康の側室だった証拠だ。明智光秀には不明な行動が多い。史実で残る以上に多くの側室、多くの子供がいたのではないだろうか。子供達が綺麗に歴史から消えているのは本能寺の変前に逃亡させていたからではないだろうか。歴史に伝わる以外の子供たちは生まれて間もなく部下に養子として引き取ってもらっていたのではないだろうか。春日局はその一人ではないのだろうか。