濱口梧陵記念館(稲むらの火の館)

江戸時代の建屋全体で海側方向(西北方向)の174㎞先、出雲大社本殿を遥拝している。武家屋敷ならばこの方角に主庭があるが、小さな中庭から出雲大社の気を呼び込むだけで、主庭は建屋内から出雲大社を背にし、庭先の東南方法の借景山を楽しむ趣旨となっている。東北方向も同じで建屋は143km先、(滋賀)兵主大社本殿を遥拝しているが、東北方向にほとんど庭はなく、主庭は兵主大社を背にし、建屋内から庭先の借景山を楽しむ趣旨になっている。しかしながら、現在、主庭の周りは住宅と津波防災センターにて取り囲まれ、借景山がほとんど見えなくなっている。建屋の遥拝方向に主庭を設けていないことから武家に遠慮し、謙虚な庭としたことが読み取れる。江戸時代の名士建屋が、大名屋敷同様に遥拝先を持っていることから江戸時代の測量士は各聖地の緯度経度を正確に把握し、遥拝方向を正確に計算する優れた数学能力を有しており、その技術は地方名士宅にも使われていたことが読み取れる。もともとは単純構成の借景庭で、季節や天候による借景山のダイナミックな変化を楽しむ庭であったあったが、借景をほとんど失った現在はシャープに剪定された樹木と白砂のように敷かれた子砂利、石灯籠による縦方向のポイントにて整理整頓が行き届いた爽やかさを感じる庭となっている。富豪の庭らしく、加藤清正が朝鮮から持ち帰った石灯籠、いく本かの春日型石灯籠が豊かさを感じさせ、五輪塔のような墓石風石組と飛び石で露地の雰囲気が作られ茶室が活用されていたことが偲ばれる。本来は借景の空と山で風を感じさせ、庭の築山土面と飛び石周りの(砂利が敷かれていない)地表面を見せることで土を感じさせ、風が地上を通る「20風地観(ふうちかん)観察、省察の道」を表現した庭だったはずだ。封建時代はそれぞれが自らの立場をわきまえ、その立場にふさわしい行いをすることが求められた。封建時代のしきたりを素直に表現し、藩主の意向を心で仰ぎ観る姿勢を庭に表現したと思った。