和歌山城 七福の庭

場違いの七福岩

表坂から天守郭へ登る道端に七福の庭がある。七福岩は本丸御殿跡にあったものだが1923年(大正12年)給水場建設の為に移転された。クスノキの大木の影、背後に動物園がある似つかない場所に庭がある。元々は本丸御殿の中庭に七福岩を置いていたのは、そこが神の通過線上で、神が立ち寄る聖地とするために七福岩を置いたと推定し、グーグル地図上に線を引いた。ブッダガヤの大菩提寺中心点と(高野山)徳川家霊台右側の徳川家康の霊舎中心点を結ぶと、天守閣の約50m南、現在の七福の庭の約20m南を通過した。線は約4960km、徳川家霊台から約504km地点(沖ノ島)宗像大社沖津宮の約1km南を通過した。そこで(沖ノ島)宗像大社沖津宮と(高野山)徳川家霊台徳川家康の霊舎中心点を結ぶと小天守と本丸御殿跡を通過した。沖ノ島は島全体が御神体なので島の北端と南端をそれぞれ起点とすると北は伏虎像あたり、南は大天守を通過した。本丸御殿跡は神が通過する帯内に入っている。七福岩は神が通過する線上にあった。小天守は東北東の水戸東照宮を遥拝している。小天守中心点と北北西の鳥取東照宮中心点を線で結ぶと西の丸庭園に架かる木橋に沿って通過する。小天守はピッタリではないが略、鳥取東照宮の方向に向いている。その背後には鳥取城の天守櫓址(久松山)が控えている。大天守は東北の日光東照宮を遥拝している。天守二之御門(楠門)は芝東照宮を、二之御門櫓は上野東照宮を、二之御門櫓と乾櫓の間の多門は(新宮)熊野早玉大社を、乾櫓は日光東照宮を、御台所と隣接する多門は上野東照宮を遥拝している。和歌山城天守郭は日本各地の東照宮遥拝所となっている。城下から天守郭を眺めることは東照宮遥拝所を拝むことになっている。和歌山城西の丸庭園南側と天守郭一番下の石垣との間の通路は久能山東照宮の方向に伸びている。天守の南側の土産物屋が久能山東照宮を遥拝する方向に建てられているので、この付近の櫓は久能山東照宮を遥拝する方向に建てられていたことが読める。西にブッダガヤの大菩提寺、宗像大社沖津宮、東に(高野山)徳川家霊台を遥拝している施設を捜すと岡口門があった。岡口門から入ることはブッダガヤの大菩提寺、宗像大社沖津宮に向かうこと、岡口門から出ることは徳川家霊台に向かうことに通じている。(舞鶴市)田辺城と紀州東照宮を線で結ぶと乾櫓の西側を通過した。田辺城の南北の城壁は紀州東照宮を遥拝する方向となっている。田辺城資料館は略紀州東照宮方向に建っている。七福の庭の七福岩と移転前の写真を比べると石組は大天守、小天守を見つめる方向となっていたことが判る。元の場所にあった時にはブッダガヤの大菩提寺、(沖ノ島)宗像大社沖津宮が発する光を大天守と小天守に向け反射させる意味を持たせていたはずだ。このような貴重な聖なる石組は元あった場所に戻すべきだと思う。薄い石は方向性を指し示すので、元の向き通りに戻すべきだと思う。