粉河寺庭園

戦場を表現した庭

粉河寺庭園は上田宗箇(1563年~1650年)作の飛び抜けて素晴らしい庭。徳島城表御殿庭園、名古屋城二の丸庭園内に見られる豪快な石組み部分も素晴らしい。以前記事にした(和歌山市和歌浦中)和歌山県公館敷地内にある庭にも感動した。少年時代から戦場を駆け回り、1582年(天正10年)本能寺の変直後の大阪城攻撃で織田信長の甥である津田信澄の首を挙げた。軍人としての階級は最前線で戦う大尉クラス(1万石=中隊長クラス)で止まった。上田宗箇が作庭したのは1614年~1615年(慶長19年~20年)大坂冬・夏の陣に従軍し、夏の陣で塙直之の首を挙げた前後なので、血が騒ぐような波打つ庭ができあがったのではないだろうか。最前線で戦う武士の魂を画いたこの庭は極めて貴重なものだと思う。庭の目的を探るためグーグル地図で粉河寺各建屋の向きを調べた。本堂、千手堂、鐘楼、御供所は東の大峯山山頂を遥拝する向きに建っていた。放生池ラインも大峯山山頂に合わせてある。中門は北に(元伊勢)豊受大神社を、東に伊勢神宮内宮正宮を遥拝していた。中門前の参道を東に伸ばすと浜松城に到達するので、中門に向って歩くことは浜松城に向かって歩くことにつながっている。産土神社は西の(福岡)宗像大社を遥拝する方角に建てられている。本坊、童男堂、念仏堂は東の(鎌倉)鶴岡八幡宮を遥拝する方向に建てられている。念仏堂と童男堂を結ぶ廊下は江戸城天守閣の方角に伸びているので、念仏堂から童男堂に向かうことは江戸城に向かうことにつながっている。各建屋を「石清水八幡宮」「久能山東照宮」「日光東照宮」「紀州東照宮」に向けないことで、当寺の独自性を示している。「童男堂」建立は1679年(延宝7年)、「大門」建立は1707年(宝永4年)、「本堂」上棟は1720年(享保5年)、「千手堂」建立は1760年(宝暦10年)、「中門」建立は1832年(天保3年)。庭とのバランスが良いこれらの建屋はすべて粉河寺庭園が完成した後に建立されているので、庭に合わせ各建屋を建立したことがわかる。(韓国)洞華寺と(高野山)弘法大師御廟を結んだ線は本堂を通過する。(兵庫)太山寺本堂と熊野那智智大社とを結んだ線は本坊を通過する。庭は武士の気概を表現しているので、武士の気概を持って本寺が指し示す遥拝先に礼拝しましょうという意味なのだろう。本堂に向かう石階段の左右に、踊るような、波打つような、見るものを圧倒する石組みがされている。石階段左側の庭の左端近くには深山幽谷を表現した石組みがあり、石組み最上段に中心石がそびえ立っている。中心石は美しい平面を持つ緑泥片岩で、崇拝の対象となるような趣がある。枯瀧の傍に近づいて庭を見上げると中心石の左側に「千手堂」の方形屋根頂点が見える。「千手堂」の方形屋根頂点を三尊石の中央石と見立て、その右側に中心石、左側にすっと立つ石とで三尊石組に見せているとも取れる。深山幽谷の石組みの多くの石は中心石に向け石のエネルギーを当てている。この石組みは炎が燃え上がるような勢いがある。しかし中心石が他の石を従えるというより、多くの石が血を流しながら中心石に向かって攻め登っているように見える。中心石近くにはソテツの葉が茂っている。「千手堂」の左側には玉散らし刈されたビャクシン(ヒノキ科)の枝が庭に突き出ている。大きな石を使った石組みの背後には借景の「千手堂」の屋根頂点、背後の借景山の常緑樹はこの庭につながっているように見せている。借景山の泉を水源とし、「千手堂」を通って流れてきた水が、深山幽谷の瀧を通り流れてくるように見せている。瀧には縦方向に白い模様を持つ石を活用し水が流れているように見せ、瀧の出口近くに大きな石を転げ落ちそうに危なそうに石組みし、瀧の出口にはいくつかの石が転げ落ちてきたように置くことで、瀧水が勢いよく流れてきているように見せている。瀧の左右、手前側にそれぞれ巨石を置くことで鑑賞者の眼を二つの巨石にひきつけ、その視線を上に移動させると二つの巨石に比べ少し小さな中心石に眼が釘付けとなる。中心石の美しさに視線が止まる。その効果により瀧の出口から瀧口まで距離があるように見せている。美しい中心石に眼を止まらせ、中心石を凝視させることで中心石が心の中で大きく膨らむ。心の中で膨らんだ中心石は視界いっぱいに見える。そして大きな中心石が立っていることに驚かせるトリックがある。

中心石に心を集中させた後、他の大きな石に視線を移すと、大きな石が実際以上に大きく感じる。石組み全体が波のようにこちらに押し寄せてくるように感じる。視線は石組み全体から瀧出口の左右の巨石、次に中心石へ、中心石で視線が止まった後、他の石々、石組み全体へ、そして再び左右の巨石へと視線が自然に堂々巡りするトリックもある。それによって石組み全体が波のように迫って来るように感じさせている。鑑賞者の視線を自然に動かし、鑑賞者の心を動かせ驚きと感動を与える。手前に大きな石を、上段には大きいが手前の石に比べ小さな石を配することで背後にある大きな本堂をより大きく見せている。更に、大小の石を波動状態に置くことでも背後の本堂をより大きく見せ、本堂が迫って来るようにも見せている。中心石を一人立たせることで爽やかな風が流れているように感じさせている。戦場に流れる爽やかな風だと感じさせる。多くの戦場を駆けた上田宗箇だからこそ作り得た庭だと思う。波打つ石組みが殺伐とならないように石と石との間にはサツキの丸刈りを配し、多数のサツキの丸刈りは上段に行くほどに大きくなりビャクシン、ソテツへと視線が移るようになっている。そして借景山の木々の緑、上空の青空に視線が動くようになっている。石組みの中にはキンモクセイもあった。「千手堂」から流れてきた聖なる枯水がこちら側に流れて来る。その流れは石組み全体にも及び、石組全体が波立って押し寄せて来る。石組みのあちこちに縦方向に白い線が入った石を配置しているので波しぶきが立っているようにも感じる。上段のウメ、ソテツが紀州にいることを感じさせる。黒潮がぶつかる白浜や潮岬の海岸をも連想させる。見る角度によっては巨大亀が崖状の石組みに張り付いているように見える。石階段の左側の庭は左から右に行くほどに手前に突き出す石が少なくなり、おとなしくなる。階段を挟んで右側の庭は更におとなしいが左側の庭と同様に躍動感がある。階段に向かって左側は陽の庭、右側は大木の陰の中にある陰の庭となっている。向かって左側は荒れ狂う大白波の海、右側は静かな大きな波の海を連想させる。左側には白線をたくさん含む石を配し、右側には白線を少なく含む石を配し、石の突出しの大小や数にて、左側の庭は荒れ狂う海を船上から見たもの、右の庭は海の中から海面を見上げたもの、或いは海底の姿を表現したように、海の表情を左右別々に見せている。冬に見る右庭の巨大亀の石組みは迫力がある。視線を、派手に石を配した左庭から、おとなしく石を配した右庭へとゆっくりと動かして行くと、庭が心の奥底へと入り込んでくる。多くの近代庭園は白砂を多用し綺麗で、太陽光を反射させ陽を過度に強調しているが、陰の表現は少ない。権利を主張し、個人利益を追求することを善とする陽を尊ぶ世相を庭に映し出している。これからの近代庭園、露地庭園は陰徳に通じる陰を取り入れることが課題ではないだろうか。自分だけが良ければよしとする不自然な、無責任な思想が曲がり角に来ている時代なので、心を吸い込む陰の部分がある庭に学ぶことは多いと思う。右庭の一番奥まで行き振り返って石組みを見ると、縦方向に白い筋の入った石の面を見せるように石組みがされている。ナイアガラの瀧のように右庭全体に水が流れ落ちているように見せ、先ほどとは違った表情を見せている。亀の石組みの甲羅部分はコケ面となっている。コケ面が左庭と違い、大木の陰にあることを意識させる。蝉が鳴く季節には石組みから水の流れる音が聞こえてくるように感じることだろう。中央の階段を登り、「本堂」側から「粉河寺庭園」を見ると先ほどとは違い、大きな石の頭部分が小さく見え、小ぶりの石を土に埋め、細長い石が立ててある。借景となっている南側の丘陵を大きく見せる借景庭園となっている。優しい小ぶりの石と多数のソテツによって、温和な蓬莱の世界に入り込んだことを実感させられる。ナンテン、マンリョウ、サツキ、ヒノキ、サクラが目に入った。先ほどまでの戦場風景の庭と対照的だ。どこまでも奥深い。