金剛峯寺 四季の中庭

1869年(明治2年)高野山の学侶方中心寺院だった青巌寺と行人方中心寺院だった興山寺が合体し金剛峯寺が生まれた。主殿は青巌寺跡の中心建屋で、書院上段の間と奥書院の西側に中庭がある。近年、興山寺跡に観光客の目を引く美しい蟠龍庭が作られたことで、中庭の影が薄くなり、庭鑑賞する人は少ないが心落ちつく庭だ。庭南側、青巌寺跡と興山寺跡を結ぶ檜皮葺の屋根を持つ渡り廊下は庭の一部を潰して作ったようにも見え、渡り廊下がアセビの作り出す山奥の雰囲気を削いだ感じがする。土面上に白っぽい砂をまぶしているが、果たして築庭時に地面に白っぽい砂をまぶしていたのか疑問を感じた。江戸庭園にある儒教的な教えを感じることができる。主殿は江戸初期1677年(延宝5年)再建、青巌寺は高い権威を持っていたので、伽藍は大規模な遥拝先を持っているはずだと推測し、グーグル地図で伽藍が向く先の聖地を探したが、伽藍の向き先が一致したのは西の小さな(対馬市上対馬町)宗像神社、北の(東大阪市)枚岡神社のみであった。個別に見れば主殿北側、土室、台所、及び正門部分、鐘楼は西方の(ラサ)ポタラ宮を遥拝していると見えなくもないが、伽藍を反時計方向に約1.5度回転させれば伽藍全体で(ラサ)ポタラ宮を遥拝でき、或いは約2度時計方向に回転させれば、空海が修行した(長安)西明寺、或いは青龍寺を遥拝できるが、そのようにしなかった理由は何なのだろうか。(ラサ)ポタラ宮を遥拝する向きとすれば、遥拝線上に栗林公園とその西側山中にある古墳群を同時遥拝してしまうからだろうか。(長安)西明寺・青龍寺を遥拝する向きとすれば、遥拝線の少し南に嵩山少林寺があり、禅宗の聖地を遥拝してしまうから避けたのだろうか。弘法大師と嵯峨天皇の深い縁を考慮し北方の(京都)大覚寺方向に主殿を向けてはいるが、正確に向いておらず遥拝しているとは言えない。多くの高野山木造建屋の中で唯一、主殿のみが嵯峨天皇を意識しているのに、なぜ主殿を反時計方向に約1度動かし、大覚寺を遥拝するようにしなかったのだろうか。密教の聖地に遥拝先は不要という意思表示なのだろうか。皇族が鑑賞するため作った中庭は5本筋の入った築地塀で囲まれている。書院上段の間は天皇、上皇が登山された際の応接間として使用され、奥書院は皇族方のご休憩所として使用された。よって、中庭は貴族風であると思い鑑賞したが、池に黒玉石による洲浜は無く、大規模な遥拝先をもっていないためか地面に純白の白砂が敷かれていない。京都御所、仙洞御所の庭は本来、東山を借景とする借景庭園なのに対し、こちらは借景を持たない庭で、冬、真っ白な雪が降り積もった時、一番美しく輝くよう設計したのかも知れない。金剛峯寺のHPに「上段の間の前にある庭は江戸期に作られたと伝えられ、当時は池の周りに高野六木(杉・檜(ヒノキ)・松・槇(マキ)・栂(ツガ)・樅(モミ)がそびえ立っていたそうです。馬酔木(アセビ)も石楠花(シャクナゲ)の花も見られ、自然の素朴さが心を和ませてくれます。春の中旬より石楠花の花が赤や白色に咲き乱れ、梅雨近くになれば天然記念物のモリアオガエルの卵が池の周囲に産み付けられます。秋になれば紅葉に彩つき、やがて冬には一面銀世界へと変っていきます。四季折々の風景が眺められる庭園です。」と説明されている。現在の庭は池の周り間際に大木が無く、五葉松を真っすぐではあるが低く育て、アセビ、シャクナゲを見せる庭になっている。しかし、庭を取り囲む比較的高いところに育つスギ、高野マキなどが大木となり、幹と幹、梢の間から青空が見えるので山奥の頂き付近に居ることを実感できるようになっている。書院上段の間の近くから庭鑑賞すると目前の土面に天の気を反射する少し白っぽい砂が敷かれ、その先に芝面、そして池がある。池の手前側の護岸石は烏帽子を被った人物のような石々、対岸は僧侶のような頭が丸い石々。此岸と彼岸の世界を分けている。池面を覆うように伸びたアセビの枝と葉、一部の池面に深い陰を作り、龍が潜んでいるようにも見せている。スギ、高野マキなどの高木で囲まれているので、廊下の際まで行かないと青空が仰げないが、高木群と池周りのシャクナゲ、アセビなどで風を感じさせ、雷が鳴り響く時が来れば山深いところの小さな池に潜む龍が天に登ることを連想させるようになっている。まるでチャンス到来を待っているかのようだ。上段の間に座る天皇、上皇、奥座敷で休憩する皇族方から庭を観れば細長い流水池の上を爽やかに風が通る「61風沢中孚(ふうたくちゅうふ)」の風情が楽しめる。わだかまりを持たず人と接する虚心の世界、大いなる愛で人を信じられる虚心の世界の中に浸れる。禅定の境地とはこの庭が表現する虚心の世界なのだろうと思った。