龍泉寺

出雲大社遥拝庭

当寺のパンフレットに「昔この地に古い池があり、そこに悪い龍が棲み人々に被害を与えていました。(蘇我)馬子は、人々を救うために修法を行ったところ、悪龍は、仏法の力にはとてもかまわない、といって飛び去ってしまいました。」と説明されていた。蘇我馬子が悪龍勢力の祭祀を排除し佛教寺院を建設するまで、悪龍勢力の祭祀の地だったことが読みとれる。(三重県)城之越遺跡は泉だったが、ここは池が祭祀場だったようだ。パンフレットには「弘法大師が三つの島に聖天、弁財天、ダ天を祀り、牛頭天王を鎮守とされました。」と記載され、当寺内の説明板に「中央中島には春日造(桃山時代)の祠に聖天、弁財天、ダ天を祀る。」と書かれていたので、弘法大師が佛教寺院の境内の枯れ池に土木工事を施し、池を復活させた。南北朝時代の戦乱で寺が荒廃したが、江戸時代の再建時に庭が再整備されたと読めた。庭の設立目的を探るため建屋の遥拝先、この地に関わる遥拝線を調べた。本坊は南に(高野山)大門を、北に応神天皇陵を遥拝する向きに建ち、両聖地を結ぶ線上にある。本坊と伊勢神宮外宮の多賀宮を線で結ぶと石舞台古墳(蘇我馬子の墓と伝わる)を通過した。八脚門(仁王門)と本堂は東に石舞台古墳、伊勢神宮外宮を遥拝し、北に(藤井寺)仲哀天皇陵を遥拝している。本堂への参道も仲哀天皇陵に向かっている。聖天堂は伊弉諾神宮と伊勢神宮内宮両方を遥拝している。庭の中央島(弁財天堂島)に掛かる石橋を伸ばした先には出雲大社があるので、庭の鳥居を潜り石橋を渡り弁財天堂に進むことは幣掛神社を背後に出雲大社に進み、出雲大社を遥拝することにつながっている。(淡路島)伊弉諾神宮と伊勢神宮内宮御正殿を線で結ぶと、当寺の八脚門を通過する。出雲大社と(吉野)幣掛神社を線で結ぶと、当寺の本坊を通過する。清和天皇陵と(高野山)金剛三昧院本堂を線で結ぶと清寧天皇陵(羽曳野市)を通過し龍泉寺庭園のすぐ西側を通過する。この三つの遥拝線は八脚門(仁王門)の西側約50mの当寺境内でクロスする。神が行き交う雰囲気の庭がクロス点にあってもよさそうだが鬱蒼とした樹木の中にあった。以上の遥拝線から見て、主に河内源氏の聖地を拝む向きに各建屋があり、神々が行き交う地に当寺があるが、庭に古代祭祀を封じ込める意図が見え隠れする。石舞台は当寺と伊勢神宮外宮を結ぶ線上に作られているので、当地の祭祀を変えさせた蘇我馬子への敬意が感じられる。弘法大師の手により枯れた池が再生されたので、それまで慣習的に残っていた祭祀は弘法大師によって封じ込められ、江戸時代に出雲大社遥拝の庭池として整備され、過去の祭祀が完璧に封じ込められたと考えるのが自然だと思う。庭は嶽山の山腹に有る。三つの島を配する池を取り囲むスギ、ヒノキ、クスノキ、スダジイ、アラカシなどが大木に育っている。池の手前から借景の嶽山が拝める。嶽山は標高300mにも満たない低い山、池の標高も186mと低いが、低い山の中にいるという雰囲気ではない。常緑樹の大木群の太い幹が山深い地と感じさせているのかも知れない。嶽山を須弥山に、池を大海に見立てたのかも知れない。弘法大師の作った池島は舟でしか渡ることができなかったはず。石橋は江戸時代に架けたものだろう。池周りや島に多数のモッコク、マツが植えられ、池の周遊道にはヤブツバキ、アオキも植えられているので、武家庭園風となっている。池手前にはカエデが植えられているが葉が景色を遮っている。池にはハナショウブ、スイレンが植えられていた。池の西北に位置する嶽山から流れて来た水が池の西側の側溝を通して南方向に排水されている。この水の一部が池の西南地点で池に流れ込むようになっている。池の水位が上がると側溝へ逆流し水位調整している。土を固めた護岸が素晴らしい。上述した3つの遥拝線がクロスする地点の少し北側、3つの遥拝線から外した位置に池庭を作ったことで、神々が遊ぶ池庭になっておらず、単純に出雲大社を遥拝する池庭となっている。スマートな遥拝池庭が古代祭祀池を完全封印したと思った。