天授庵の本堂、庫裡、大書院、小書院、通用門は西に釜山、永登浦倭城を、東に岡崎市西本郷町、和志取神社を遥拝している。東南方向に伸びる北側の築地塀、境内の東西方向に伸びるすべての直線参道は皆、この線に沿っている。永登浦倭城と和志取神社を結んだ線は天授院を通過する。天授庵の正門そして庫裡の西側、小書院の北側の小さな建屋群は南禅寺大方丈、大方丈前庭の築地塀、南禅寺鐘楼・南禅院方丈、庫裏と同じく西に釜山の梵魚寺を、東に小國神社御本殿を遥拝している。天授庵建屋の東西方向の向きから、南禅寺は塔頭と共に、草梁倭館を中心にその周囲にある梵魚寺、甑山倭城、釜山鎮城、加徳倭城、永登浦倭城に佛気を送り、草梁倭館において順調な外交、貿易が行われることを祈っていたことが再認識できた。釜山の梵魚寺中心と小國神社御本殿を結ぶ神佛の通り道は兵庫県宍粟市、伊和神社-二条城天守-南禅寺金地院・南陽院・天授庵・鐘楼・南禅院方丈・高徳庵-大池寺本堂-三重県鈴鹿市、椿大神社を通過しており、南禅寺金地院、大方丈前庭の記事で書いた通り、この神佛の通り道は多くの神佛の通り道と交差しているので、東庭と南庭は神佛の降臨庭となっている。次に建屋の南方向の遥拝先を見ると、本堂と、本堂東庭の南側にある本堂と平行な畳石参道、本堂に隣接する茶室は南の熊野本宮大社跡大斎原を遥拝していた。本堂東庭、正門と本堂中央前まで南北方向に直線に伸びる畳石参道は、日本武尊の琴弾原白鳥陵を遥拝しているので、正門を潜り、参道を歩くことは琴弾原白鳥陵に向かうことに通じている。通用門と庫裏までの参道、庫裏、大書院、小書院は郡山城天守を遥拝しているので、通用門を潜り庫裏に進み、庫裏から大書院に進むことは郡山城に向かうことに通じている。庫裡の西側、小書院の北側の小さな建屋群は奈良県御所市、大穴持神社と慈光院を同時遥拝している。南方向においては熊野本宮に祀られているスサノオ、琴弾原白鳥陵の日本武尊を崇拝しつつ、郡山城や慈光院に佛気を送る建屋構成となっている。方丈東庭は小堀遠州のデザインによるスマートな庭で、四季を強く感じさせる植栽と、絵画的な美しさを特徴とし、方丈内の絵画と同期させている 。方丈東庭から南庭に続く通路には来客者の足取りが軽くなる縦長の石が配されている。白砂で天空を反射する明るい方丈東庭から、大木で包まれた掘り込まれた池による鬱蒼とした南庭に招き入れる縦長の石だ。南庭を観察すると、時代ごとに手が加えられたように見える。1467年(応仁元年)応仁の乱で天授庵を含む南禅寺全域が焼かれた。戦国時代135年も放置されれば再興時に庭の原形はなかったはず。庭は畑にされていた可能性もある。1602年(慶長7年)細川藤孝が正門・方丈・旧書院(庫裏)を建て天授庵を再興した。小堀遠州は南禅寺方丈庭園、金地院庭園を手掛けているので、天授庵の庭回復を指導したと思うが、南庭には小堀遠州の特徴は少ない。大書院、新書院の建て増しで、庭の改造が行われたはず。幕末近くの徳川家斉将軍在任中、幕府の腐敗を批判するため大奥に似せた鳥小屋を庭に置く時期があった。明治維新以降には江戸文化を潰す流れが起き、庭に虚飾を加え、庭を汚すようなことがされた。そのため本来は透き通るような庭だったものが濁されたように感じた。南庭の東の池:熊野本宮大社跡大斎原を遥拝する方丈・茶室と熊野本宮大社跡大斎原を結んだ神佛の通り道は南庭の東の池を通過し-佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)-佐紀高塚古墳(称徳・孝謙天皇陵)-畝傍山を通過するので、瀧がある東の庭は聖なる遥拝庭のはずだが、池の中に徳川家斉将軍批判のような、大奥を表現した鳥小屋風の小屋が置かれている。南庭の西の池:通用門と庫裏までの参道、庫裏、大書院、小書院は郡山城天守を遥拝している。以前、郡山城の記事を書いたが、そこで郡山城天守は応神天皇が権現した姿を表現したものだと推定した。よって南庭の西池は応神天皇神を招き入れるためのものだと思う。南庭には樹木と建屋とで囲まれた二つの池があり、樹木の幹の間に借景の東山と空、見上げると空が見える。この形を易経に当てはめると「37風火家人」(家を正す)となるので、家を正すことが社会を正すことになる。そのことを教える庭だと思った。上述した鳥小屋との組み合わせで徳川家斉将軍を批判したのかも知れない。南庭の西側、池水が外に流れ出る排水口付近、平たい2枚の大きな平たい石を並べて橋としている。2枚の石の継ぎ目を割れ目のように見せている。その傍に大きな窪みを備えた自然石で作った手洗い石が置かれている。これら大胆な構造美は古田織部の美を継承した小堀遠州による品の良い女性美表現だと思った。