清洲城・小牧城

織田信長の躍進(2)

清洲城跡にはJR東海道本線・新幹線が貫通しているので、南北に分断された2つの公園となっている。南側の公園には桶狭間方向に向く織田信長の銅像とそのかたわらの濃姫の銅像があり、新幹線の傍らに近代戦争の多くの記念碑が立っている。北側の公園には織田信長公社があった。五条川対岸に新造された観光用模擬天守に登ると、五条川、水田、湿地に囲まれた城だったことが見て取れる。水で囲まれた封鎖されやすい城なので籠って守れば自滅してしまう。交通の要衝の利点を生かし、攻撃される前に攻め出なければならない。清洲城を中心に要所、要所に小さな城、砦を設けていたので、尾張に侵攻されたら、それらの小さな城や砦で敵を足止めし、野戦を仕掛けなければならず、そのための軍司令部だったことが見て取れる。桶狭間の戦いで信長が清洲城から小姓衆5騎だけを連れ出発したように、情報収集には有利な地だった。1555年、信長は清洲城を手に入れるため、城内に放火し人心不安を起こし、信長と組んだ叔父に身内の城主を殺害させ入城した。清洲城が戦場となったことはないが、入城の翌年、信長は病気になったと偽り、母親に見舞いに行くようにと同母の弟を説得させ、来城させて殺害(信長最大の政敵を打倒)した。信長は清洲城を尾張中心の血なまぐさい城にした。1560年、桶狭間の戦いに勝利、徳川家康と清洲同盟を結び三河から東の脅威を排除し天下統一事業を開始、1563年、信長は小牧山城に移った。熊野那智大社正殿と(犬山市)熊野神社を結んだ神の通り道は小牧山城天守の西北15m付近を通過する。小牧山城天守は熊野那智大社正殿を遥拝している。(敦賀市)気比神宮本殿と(掛川市)雨櫻神社本殿を結んだ神の通り道は天守に沿うように天守の西南側端辺間際を通過する。天守はその両聖地を遥拝している。信長は江戸時代の天守のように、天守に遥拝を取り入れ、石垣の上に坐する神格化された天守を見せようとしたことが読める。濃尾平野にある天守なので、伊吹山、能郷白山、穂高、御嶽山など多くの聖山が見え、聖山遥拝所になっている。そして犬山城、岐阜城天守を望める。小牧山城も清洲城と同じく籠って戦う城ではなく、攻め出て野戦で敵を撃破する城だ。小牧山は岩盤山のようで、城内に小川が見えず飲み水確保と防火に難点があるように見えた。井戸水脈は堀の役割を持つ合瀬川付近のみではないだろうか。しかし、濃尾平野の中の独立山なので周囲に威圧感を与えることができ、清洲城よりも多くの兵員が収容できる。小牧城を活用した徳川家康は小牧・長久手の戦いで大戦果を得た。日光東照宮御本殿と(奈良)御蓋山本宮神社を結ぶ神の通り道は天守を通過する。日光東照宮御本殿と(奈良)法隆寺五重塔を結ぶ神佛の通り道は天守の約120m西北付近を通過し、(奈良春日大社境内)南門を通過する。躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)武田神社本殿と(京都)南禅寺金地院東照宮を結ぶ神の通り道は天守の約50m南を通過する。諏訪大社上社本宮と(奈良)大塚山古墳を結ぶ神の通り道、諏訪大社上社本宮と(奈良)崇道天皇八島陵を結ぶ神の通り道は天守の約120m西北付近を通過する。諏訪大社下社春宮と(奈良)耳成山口神社を結ぶ神の通り道は合瀬川に面した曲輪を通過する。小牧山は神が立ち寄る聖山となっている。尚、本能寺跡石碑と武田神社拝殿を結んだ線は(小牧城)搦手口跡付近を通過した。1563年、小牧城に移った信長は石高を倍増させる大躍進を始める。1564年犬山城を攻め織田信清を追い出し尾張全土約57万石を領地とした。1567年夏、稲葉山城を落とし、美濃約54万石を領地とし、稲葉山城を改築し岐阜城と名を変え、居城を岐阜城とした。同時期、北伊勢攻めを開始、1568年、北伊勢の神戸氏に(三男)織田信孝を、長野氏に(弟)織田信包を養子にさせ、北伊勢28万石を乗っ取った。1568年に約140万石となった。平時100万石で一個軍団を擁したので、戦時なので、2個軍団(軍集団)の戦力を擁するまでになったと推測する。桶狭間の戦いから僅か8年で約5倍に伸し上がった。清洲城は南尾張を守るための城、小牧城は尾張統一と美濃攻略城、岐阜城は北伊勢、南伊勢、畿内を攻略し、足利幕府、武田氏、一向一揆を打倒するための城。安土城は第三次信長包囲網を打破し、武田氏整理するための城。いずれの城も軍司令本部として機能したが、天下統一後のことなど考慮しない城で、すべて廃城となっている。周山城、勝竜寺城、宇佐山城、坂本城、長浜城、松ケ島城、宇佐山城及び足利義昭のために作った旧二条城も廃城となっている。信長の城を見ていると信長は日本統一後のことなど全く念頭になかったように見える。効率良く天下統一(日本政治の中枢部を一本化)することだけを念頭に置き築城し戦った。天下統一の目標到達直後、信長は予定されていたが如く日本史から消え去り、自らの悪行を消した。信長の多くの子孫は江戸時代を乗り越えた。