清見寺(せいけんじ)

徳川家康ゆかりの寺社(3)

清見寺HPに「最初の築庭には徳川家康の意向が入れられ、江戸時代初期に山本道斎によって作られたといわれている」。パンフレットに「此の庭は、江戸時代の初期、山本道斉によって築庭されたと伝えられ、のち江戸中期に少しく改修された。家康公は殊の外この庭を愛し、駿府城より虎石、亀石、牛石を移してこの庭に配した。又柏樹を手上して庭の景趣を添えた。庭前の砂利盛りは銀砂灘と称し、周囲の緑色に反映して美しい。而して庭は現在国の指定を受けて保護されている。」と説明されている。1540年頃に太原雪斎が当寺を復興、当寺は1549年頃から1560年頃まで家康のための学校だった。家康(1543年~1616年)が庭に深い思い入れを持って当然だ。仏殿・大方丈・書院・庫裏・鐘楼は北191㎞の烏帽子岳(長野県下高井郡にある標高2,230mの山)を遥拝し、西243㎞の比叡山延暦寺東塔を遥拝している。延暦寺東塔は東大寺大仏殿・中門・南大門、興福寺大湯屋、元興寺、新薬師寺から遥拝される自然崇拝以来の聖地である。建屋を比叡山延暦寺東塔に向けたのは当寺が河内源氏の足利尊氏に深く崇敬されたこと、河内源氏の今川氏に外護されたこと、河内源氏の徳川家康が当寺で学んだことにあると思った。延暦寺東塔と当寺大方丈中心を結ぶ遥拝線は日吉東照宮の北約40m-(桶狭間の戦いの前哨戦となった)鷲津砦の山裾-当寺すぐ近くの清見神社本殿中心を通過する。大玄関は延暦寺、日吉東照宮、鷲津砦、清見神社に向かっている。建屋中一番古い1651年(慶安4年)建築の山門だけが大方丈など他の建屋と平行ではなく約2度の角度差があり、西5225㎞のブッダガヤの大菩薩寺を遥拝している。遥拝線上には(倭城)松真浦倭城がある。北には金櫻神社(甲府市御岳町)を遥拝している。1889年(明治22年)東海道本線が敷設され、清見寺境内が分割された際に、山門と鐘楼は移動されたが、鐘楼は大方丈と同じ遥拝先に向けて移設されているので、山門も同じ向きのまま移動されたはず、山門近くに菩提樹が育っているので、当初から西にブッダガヤの大菩薩寺、北に金櫻神社を遥拝していたと読んだ。以上、伽藍の遥拝先は神社創設以前からの聖地ばかりとなっている。家康手習いの間にあやかってなのか会津藩校日新館と久能山東照宮を結んだ線は当寺の大方丈を通過する。(日光)栗山東照宮と久能山東照宮を結んだ神の通り道は当寺の本堂を通過する。清見寺HP江戸中期図に書院はなく、1867年(年末に大政奉還があった慶応3年)に書院が建てられ、その際に大方丈の北庭が縮小されている。東海道本線の敷設の際には大方丈の南庭が縮小されている。書院と庫裏に挟まれた中庭は書院建設時のものか、江戸時代初期の庭を利用したものだろう。徳川家康公手習いの間の前から北庭(清見寺庭園)を望むと、中心石は池の傍らの石灯籠、石灯籠周りの石以外の庭石は小さく、一隅を照らす表現となっていることが分かる。瀧石組も農家の水路のように小さく、家康手植えのカシワも小さく育てられている。瀧の後ろに鑑賞者の心を山の中に誘い込む幾つかの石が置かれている。池も小さく護岸石も小さくおとなしい石組みになっている。浅い池で山と建屋に囲まれた閉鎖空間なので波立ことはなく心鎮めることができる。庭の西側にたくさんソテツが花開くように育ち、書院側から望むと背後に仏殿が控え遥拝先の比叡山延暦寺に思いを至らせるようになっている。大方丈の南庭は眺望の良い海側にある。芝生面に家康手植えの臥龍梅がある。現在は清水港の埠頭にて借景の美観は損なわれているが、近代に開発されるまではすぐ近くが海辺で海水浴ができた。波音が身近にあり、駿河湾、三保の松原を楽しむ庭だったことが想像できる。HP江戸時代中期境内図の石垣に築地塀が描かれていないので、借景を楽しむため、波音を建屋に取り込むために石垣に塀を設けなかったのかも知れない。借景を美しく見せるための権現石のような大きな石は庭縮小の際に移動させたのだろう。大方丈の北庭は音がこもる形となっているので、庭に波音をこもらせるも、池には波が立っていない風景を見せ、精神鍛錬させる庭だったと思う。江戸時代は朝鮮通信使、琉球使を受け入れており、書院には明治天皇御成りの間があり、東宮殿下(後の大正天皇)が海水浴のために滞在されている。1889年(明治22年)東海道本線が敷設されるまでは、極めて美しい借景を持つ南庭と、波音を聞きながらも穏やかな風情を眺める北庭があったことが想像できる。伽藍の略中央部、学習と警備に一番適した場所に徳川家康公手習いの間がある。人材育成のために太原雪斎が特別に手習いの間を設け、家康に特別な教育を施していたことが見て取れた。江戸時代、朝鮮通信使や琉球使の接待が幾度も行われ、徳川家康公手習いの間は広報に使われたことだろう。当寺は校舎といった雰囲気も漂っている。人質に取られた子供の家康に対し、すばらしい借景を持つ南庭、現在の庭とは異なるが北庭に面した手習いの間をあてがい、軍師および政治家として当時の日本でトップクラスの太原雪斎を教育に当たらせた。つまりは河内源氏の長となるべき人材を計画的に育て、征夷大将軍に就任させる目的を持っていたということだろう。人質というのは方便で、戦国時代を終わらせ平和な時代を迎えるための河内源氏の長を家康(竹千代)に定め、家康を作るための学校だったことは一目瞭然だ。さて徳川家康公手習いの間は臨済寺にもある。当寺と臨済寺は直線13.8㎞離れている。大きな疑問だが、二つの徳川家康公手習いの間をどのように使い分けしたのだろうか。飛躍すれば、竹千代は二人いて、一人は臨済寺で、もう一人は当寺で勉学に励まさせていたことが推測できる。伊賀八幡宮(岡崎)の記事で家康は複数人いたのではないかと書いたが、子供の時から二人の家康がいて、二人を同時育成していたのではないのだろうか。駿府城本丸から臨済寺までは直線1.6㎞、当寺までは14㎞、駿府城本丸から臨済寺までは馬を使えばすぐに行けるが、当寺までは馬を乗り換えても二時間程度はかかる。しかし太原雪斎が同じ日に両方で同じことを教えることは可能だ。臨済寺で学んだ竹千代を1代目家康に、当寺で学んだ竹千代を2代目家康にすることが可能な地理環境と学習環境がある。