河内源氏聖地遥拝庭
本庭園は朽木興聖寺(築庭当初は岩神館)庭園同様、血なまぐさい戦国時代の匂いを伝える。築庭した細川高国(1484年~1531年)の気迫が伝わってくる。二つの庭園は人目を避けるような静かな風景の中で輝き続けている。現在、スギなど常緑樹の大木で覆われ山並み、大空が見えにくくなっているが、当初は朽木興聖寺庭園のように周囲の山、大空を借景とした開放感ある庭だったはずだ。二つの庭園を比較すると、朽木興聖寺は個々の石々が歴史を語り出すように作り替えられた感があるが、こちらはスギが植えられた以外、細川高国が築庭した当時の雰囲気を感じる。二つの庭は同時期に作られたことによるものか基本構造が似ている。瀧口から細長い池に瀧水が音色を立てて注がれ、池の中には橋の架からない独立した島が有り、池をまたぐように石橋が掛かり、池の周囲を回遊できるようになっている。庭石に武将魂を感じる。朽木興聖寺庭園は1528年(亨禄元年)~1531年(亨禄4年) 一緒に朽木に逃避した細川高国が12代将軍、足利義晴(1511年~1550年)を慰めるために築庭したもの。石面に向かい石と会話ができる。こちらは1529年、細川高国が再起をかけて娘婿の北畠晴具(1503年~1563年)を訪ね援軍要請の際に築庭したもの。組織を統率する姿が画かれている。1531年(享禄4年)北畠晴具の支援(軍資金と思う)を受けた細川高国は摂津天王寺で細川晴元、三好元長と戦うが敗北し、尼崎で自害させられた。この庭を得た北畠晴具はこの庭の立石(孔子岩)のように天文年間(1532年~1555年)に志摩国及び吉野を制圧し、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。北畠晴具の長男、北畠具教(1528年~1576年)は父の意思を受け順調に領土を拡大し、志摩国での支配体制を固め北畠家の最盛期を築き上げた。ところが1568年(永禄11年)織田信長が伊勢国に侵攻し、次いで1569年(永禄12年)北畠家領内へ侵攻を開始、北畠具教は大河内城(三重県松阪市)での籠城戦で降伏、織田信長の次男、織田信雄(1558年~1630年)を養嗣子として迎え入れ和睦したが、1576年(天正4年)織田信雄が北畠具教及び一族を暗殺し、北畠家を滅亡させた。織田信雄はここ国司居館(多気御所)を撤去した。しかし庭は潰さずに遺した。細川高国は足利幕府の政権トップ(管領)であり続ける為、細川家内紛を起こし、幾多の戦場に立ち軍を指揮した。敵を作り最後は自害に追い込まれた。応仁の乱(1467年~1477年)で弱体化した足利幕府を更に衰退させた。この庭の王者である立石(孔子岩)のように軍司令として武将達の尊敬を集め、兵卒から慕われ、統帥したことだろう。石々が戦国時代の武将魂を持っているので庭に足を踏み入れるとその迫力に圧倒される。落ち着いて石々を見ると立石(孔子岩)を中心として、いくつかの石の頂点を直線上に一致させている。まるで立石を中心として光の線を放出しているが如く見せている。遠近感をより強調するこの技法は近代庭園で良く見るが、近代庭園と異なり、石々の頂点を一直線上にピッタリと揃えず、自然に見せている。面白いのは遠くから立石を見ると偉大な統帥者に見えるが、近づいて見ると急に人の弱さ、人間臭さを感じる。約500年近い年月を経て、立石及び石々に白ゴケが成長し、石々に一体感がある。護岸石々は尖った先端部分を一様に天に向けているので、さしずめ水際を守る兵卒に見える。石の角や先端部分が立石と光の線でつながっているように見せている。米字池中心近くに架かる大きな石橋の傍に大きな亀石が置かれている。鶴石がどの石なのか判読できなかったが、亀石と亀島(中之島)から蓬莱庭だと読める。組織秩序を示した庭に、蓬莱の雰囲気が盛り込まれ、組織の中の家族的な温かみが表現されている。江戸庭園とは異なり亀島(中之島)に橋を架けていない。亀島に橋を架けないことで、人が立ち入れない神聖な場所に見せている。米字池としたことで、池の一部を曲水のように優雅に見せている。瀧口は反響音色を聞かせる。瀧口付近の池の中に大きな石を二つ並べている。これも水中に頭を出す神聖な石に見える。瀧口から注ぎ込まれた澄んだ山水は排水がスムースに行っているためか多くの鯉が泳いでいるのに匂いがせず、スギの大木とカエデの木陰にある水面に木々や空が反射し、透き通った水が底の緑色をした泥を見せているので清清しい。北畠晴具は和歌を愛し、1521年(大永元年)細川高国らとともにここ多気御所跡で歌合せを行った。1522年(大永2年)連歌師の宗長(1448年~1532年)をここに招き連歌興行を行っている。米字池の形により池を曲水状に見せ、水面の光の変化を楽しませ、瀧口の音楽のような音色などで庭に和歌のリズムを取り入れたと思った。この庭が一番綺麗に見えるのは紅葉のシーズンだろう。血色に染まったモミジが落葉し、水面を真っ赤に染め、血の池とする時ではないだろうか。戦場の異様な静かさ美しさを表現する季節だと思う。往々にして組織は自ら一番得意とするところに突き進みすぎて自らを崩壊させてしまう。この庭に秘められた美しさはそのような歴史を証言しているからかも知れない。苔面が謙虚にそれを表現している。村上源氏の北畠氏は鎌倉時代末期に南朝の後醍醐天皇の建武の新政を支えた。南北朝が一つになった後も伊勢国司として勢力を保った。足利政権の大軍に攻められたこともあるが、応仁の乱前から足利政権に協力を行い、着実に領土を広げた。歴史の大きな流れを見れば、来るべき北朝系河内源氏の徳川幕府の時代に南朝を支えた北畠氏は不必要と判断され河内源氏の意向で織田信長により完全消滅されたのだろう。しかし何故、庭を遺したのだろうか。国司居館が撤去されているので、北畠神社社務所、北畠神社の建屋方向が往時の建屋と同じ方向だと仮定し、各建屋の西に伸ばすと、古市古墳群中、最大の誉田(こんだ)御廟山古墳; 第15代、応神天皇の陵)に到った。付近には白鳥陵古墳がある河内源氏の聖地だ。当庭園が作られた当時は、庭を白壁の築地塀が取り囲み見晴らしが良かったはずで、西の応神天皇陵から発せられた光が白壁を介して立石(孔子岩)を光らせ、庭のなかのそれぞれの石に立石が光を送る神々しい庭だったと思う。つまりは河内源氏の聖地から送られてきた光が立石に反射し、庭園内を輝かせる意図で作庭したと推測した。応神天皇陵と北畠神社とを線で結んだ線の付近には巣山古墳もある(参考だが、上賀茂神社、下賀茂神社、東福寺は巣山古墳を遥拝している)。これらのことから庭は河内源氏の聖地を遥拝するための庭だったので、潰すことができず遺したとも推測した。多くの神の通り道が交差する神の降臨庭なので、スギを植え神が住む庭としたのだろう。