1941~43年(昭和16~18年)海運業者(貸船業)、又野良助が私邸として建てた。平らな芝面を強調した庭なので一見、西洋風の庭に見えるが、芝面の際には丸刈りに隠れるように石灯籠が立ち、丸刈りデザインは小堀遠州流になっている。書院からは芝面の庭と露地とが同時に見え、書院に風が通るようになっている。西洋風に見せた伝統的な日本庭園だ。応接室・書院から見た芝庭は芝面を上甲板に見立て、応接室・書院をブリッジ(操舵室)の位置とし、ブリッジから船首(へさき)を眺めたようにしている。芝面の先には明るい大阪湾上空が広がっているので、大きな船が大阪湾に向かって進み、水上に波を立て、しぶきを上げ、風を切り航海しているように感じる。正に易経「59風水渙(ふうすいかん)風、水上を行く」をうまく表現している。暖かい風が吹き、水面の氷や水を散らして進むが如く、憂いある状態を暖かい風で散らす象意を庭が表現している。憂いを蹴散らし、喜べる世界へ一心に向かう船に乗っているような庭だ。当住宅が建てられたのは日本政府が連合国に宣戦布告した年なので、それまでの連合国との憂いある状況を打破すべく日本政府は開戦し、大日本帝国海軍の艦艇を太平洋、インド洋へと進攻させ、多くの貨物船を南方へ向かわせた。当時、日本政府の政策に従うことが日本人の証であり、日本人なら戦争協力があたりまえだった。この庭どおり又野良助は多くの貨物船を貸し出し、日本政府に協力したはずだ。そして大半の貨物船が米海軍に沈められ、莫大な財産を失ったことだろう。日本政府の困難を打破するため積極的に日本政府に協力した多くの国民が、その思いとは逆に粉々に蹴散らされ、戦争に負けたからしかたがない、連合国に占領されたからしかたない、その一言で済まされている。この庭は太平洋戦争に協力した日本人の心を表現した日本国民の財産だ。