小堀遠州作 伯母子岳を中心に据えた庭
1606年(慶長11年)創建当初からある開山堂、開山堂参道は南に伯母子岳(おばこだけ)を遥拝している。伯母子岳北側の平集落には平維盛がこの地で生涯を終えたとする伝説がある。平維盛は源氏との二大決戦(富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦い)で壊滅的な敗北をした。倶利伽羅峠の戦いの一カ月後、平氏は都を落ち西走する。平氏敗北の象徴的武将の伝説の地を遥拝している。
創建当時のものではない方丈、
庫裏、書院、観月台も開山堂と同じ向きに建ち、庫裏南側の参道も伯母子岳に向いているので、方丈前庭(波心庭)、開山堂周囲の庭も伯母子岳を遥拝するためのものとなっている。伯母子岳と勅使門とを結んだ線を北に伸ばすと方丈、書院を貫き知恩院三門に至った。観月台は南に伯母子岳を、北に知恩院を遥拝する遥拝所となっている。開山堂などこれら建屋は西に島根県と岡山県の県境にある猿隠山を遥拝し、東に滋賀県の鶏冠山を遥拝している(鶏冠山には伝説がないので、他に遥拝先があるのかも知れないが西に猿を、東に鶏と名の付く場所を遥拝すること。豊臣秀吉にふさわしい。まとめると、開山堂、方丈など建屋は南に敗者の里、伯母子岳を遥拝する。猿隠山には「イザナミがカグツチを産み陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなる」伝説がある。南と西の遥拝先はマイナーな伝説地となっている。創建当初からある霊屋は南方向に真田昌幸・信繁の蟄居時代の草庵跡と伝わる和歌山県九度山町、善名称院(真田庵)を遥拝している。善名称院(真田庵)と霊屋とを結んだ線を北に伸ばすと知恩院御影堂大殿に至った。霊屋で礼拝することは知恩院御影堂大殿を礼拝することにつながっている。西に京都清凉寺(嵯峨釈迦堂;源融(嵯峨源氏融流初代)の別荘跡)、東に天智天皇陵山科陵を遥拝しているので霊屋は北、東、西にメジャーな遥拝先を持ち、南にマイナーな敗者の里、善名称院(真田庵)を遥拝する。小堀遠州は遥拝先の風景を庭に持込むので、これら遥拝先から方丈前庭(波心庭)は伯母子岳から見た大峯山脈を画いたものだと推定した。勅使門に向って左側の築山上に、山上ヶ岳(大峯山:標高1,719m)付近から釈迦ヶ岳(標高1,800m)付近までを画いている。勅使門に向って右側の築山上に、玉置山(標高1,076m)付近を画いている。伯母子岳から流れて来た雲海が勅使門から庭に流れ込み、白砂で表現した雲海上に島のように頭伯母子岳が頭を出している。庭の中の伯母子岳が雲海の先の大峯山脈を望んでいる。大峯山脈の行場などを参考に、勅使門左側築山の一番左側の石からそれぞれの石に山岳名に当てはめた。一番左の小さな石は大日山(標高約1,687m)、その右の細長い石は稲村ヶ岳(女人大峯:1,726m)、その二つの石の後にある背の高い石は山上ヶ岳(大峯山:標高1,719)、少し間隔を置いて右側の背の低い石は竜ヶ岳(標高1,721m)、その右側の背の高い石は大普賢岳(標高1,778m)、少し間隔をあけ夫婦岩のように寄り添う二つの石の左は庭の中心石である弥山(標高1,895m)、右は近畿地方の最高峰、八経ヶ岳(八剣山:標高1,915m)。大普賢岳と弥山・八経ヶ岳の間から見える奥の石は大台ケ原山(標高1,695m)、手前の小さな石はそれぞれ国見岳(標高1,644m)と行者還岳(標高1,546m)、その右の横長の石は明星ヶ岳(標高1,894m)、その右は仏生嶽(標高1,803m)、孔雀岳(標高1,779m)、その右の背の高い石が釈迦ヶ岳(標高1,800m)、更に右の小さな石は大日岳(標高1,482m)、天狗山(標高1,535m)と推測した。勅使門右側の築山上にある石は背の高い石が玉置山(標高1,076m)、手前左側の横長の石が玉置神社(海抜962m)、手前中央の小さな石が玉石社、手前右側の黄色い石が熊野本宮大社、背後の小さな石が熊野那智山、更に背後の大きな石は熊野那智大社と推測した。築山上に多数のアセビを配し山深い地を表現している。枝垂桜を勅使門に向かって右側に植えている。庭の主旨から言えば庭の左端、吉野側に桜を植えるべきだが、御所の左近桜に遠慮し反対位置に植えたと思う。雲海に見立てた白砂上に頭を出す伯母子岳が大峯奥駈道の行場、霊場を眺めている。歴史の中心にいた平維盛が源氏との戦いに敗れマイナーな伯母子岳に逃げ込み、メジャーな大峯山脈を眺望する姿に被せたものだと思う。豊臣秀吉正室、高台院(北政所)が豊臣秀吉を祀るために徳川幕府が建立した寺なので、徳川家康(源氏の棟梁)に負けた豊臣秀吉を平維盛の姿に被せようとする江戸幕府の意向が見える。その趣旨で小堀遠州が作庭したものと推測した。開山堂周囲の庭は伯母子岳から高台寺付近の景色を鳥瞰図的に描いたものだと推測した。中門を伯母子岳とし、中門から見て中央の開山堂を高台寺、右側の臥龍池を琵琶湖、左側の偃月池を日本海に見立てたと推測した。左側の二つこぶの築山は霊山である金剛山、生駒山を見立てたものだろう。もうひとつの築山は愛宕山を見たてたものだろう。池の護岸を見れば臥龍池は護岸石が目立たないようにし波静かな琵琶湖を表現し、偃月池はゴツゴツとした護岸石にて荒波の日本海を表現したことが判る。開山堂前のクロガネモチが美しい。この池や芝面の築山は綺麗で小堀遠州の美の世界に酔いしれる。現代、このレベルの庭が造れないのは庭に女神を降臨させる構図になっていないからだと思う。方丈前庭の白砂面はライトアップのために、白砂庭をスクリーンとして使っている。時には前衛的な模様が描かれる。時代を表現したような白砂模様は爽やかだ。