曼殊院 小堀遠州流庭園

恋の歌を重ねてきたかのような曼殊院庭園

白砂が表現する大河・海、その白砂が鶴島・亀島などの島と同じ高さに盛り上げてあるので、白砂中の島が白雲の上に浮かび漂流しているように見える。白砂が絵巻の中に画かれた雲にも見え、大書院、小書院が天上に住む人のものに感じる。庭の東側の築山と白砂中の島に育つ樹木の陰は白砂が反射する太陽光で薄くなっている。その効果で庭周囲のスギ、マキなどの大木がより暗く沈んで見え、白砂の反射光が庭を特別明るいものにしている。石橋が架かった龍門があり、比叡山から流れて来た水が龍門から流れ出て大河となり海となるように画かれている。龍門の傍にリンガ的表現の太い石が置かれている。龍門と太い石は樹木のドームの中にある。庭の南側に築地塀があり、築地塀が比叡山山裾と庭とを切り離しているので、島と築山とは比叡山の山裾につながらない聖なる島・山となっている。庭に小堀遠州の庭で見られるような天を突き刺す石や、薄い平石を立てた遥拝石がある。少し傾いているので遥拝先に頭を下げているのだろう。庭の南側にはスギ、マキなど太い1本の幹を持つ大木が並列に配され、庭の東側、比叡山の山裾を利用した面には多数の二股の木が配されている。庭の南面の1本幹の木々で陽を表現し、東側に配した二股に分かれた木々で陰を表現し、陰陽対比を楽しめるようにしている。大書院東側の廊下から鶴島のキリシタン灯籠を含む4本の石灯籠を見ると、それぞれの火袋の方向がピッタリと一致した。そのポイントから4つの石灯籠を見ることは4箇所の遥拝先を同時に遥拝することにつなげているのだろう。大書院、小書院、庫裏、大玄関、上之台所など廊下で連なる大きな建屋群、及び護摩堂は一律に南に神武天皇陵(畝傍山東北陵)を、東に久能山東照宮を遥拝している。その方角に向けピッタリと建てられている。曼殊院と神武天皇陵とを線で結ぶと平城京跡を通過した。大書院内、小書院内から南に庭を見ることは神武天皇陵、そして平城京跡を遥拝することにつながっている。余談になるが、神武天皇陵の礼拝所は京都御所にピッタリと向いているので神武天皇陵に参拝することは京都御所を拝むことに通じている。曼殊院と熊野本宮大社大斎原とを線で結ぶと平城京朱雀門を通過し、神武天皇陵の敷地内東側を通過した。大書院・小書院の特定ポイントから庭内の目印を見ることで平城京跡、神武天皇陵、熊野本宮大社大斎原を同時に拝むことができる。曼殊院と藤原京跡を線で結ぶとコナベ古墳、海龍王寺本堂、耳成山の東側を通過した。大書院・小書院の特定ポイントから庭内の目印を見ることでコナベ古墳、海龍王寺本堂、耳成山、藤原京跡を同時に遥拝することができる。逆に藤原京跡から北を遥拝することは、耳成山山裾、海龍王寺本堂、曼殊院を拝むことに通じている。津山衆楽園と久能山東照宮とを線で結ぶと曼殊院を通過した。津山衆楽園内から東の久能山東照宮を遥拝することは曼殊院を拝むことにつながっている。まとめると大書院・小書院は東方向に久能山東照宮のみを遥拝し、南方向に神武天皇陵をメインで遥拝している。グーグルマップでは遥拝ポイントとそれぞれの遥拝目印(どの石灯籠、石が示す遥拝先)までは特定できないが、少なくとも大書院・小書院内から建屋方向に沿って庭を鑑賞することは上述の明確な遥拝先を拝むことにつながっている。明治時代に移転させられた宸殿が大書院などの建屋と同じ方向に建てられていたとすると、東に久能山東照宮を遥拝していたことになる。もし大書院などとは異なる方角に建てられていたとしても、宸殿の東に大書院がそびえているので、大書院に沿って東を見たその先に久能山東照宮があることが意識できる。よって宸殿は久能山東照宮遥拝所でもあったはずだ。1873年(明治5年)宸殿を撤去したのは、明治政府が進める王政復古と合わない久能山東照宮遥拝の宸殿だったからだろう。現在、宸殿の再建計画が進められているが、再建される宸殿は創建当初の位置にピッタリと合わせるべきで、創建当初の久能山東照宮遥拝を再現してこそ庭が引き締まるし、江戸初期から徳川幕府主導で公武合体していた歴史を再現できると思う。枯山水庭園は小堀遠州風といわれているとおり小堀遠州特有の明るさがあり、リズムカルなものとなっている。石灯籠をスマートに目障りとならないように使っている。鶴島にゴージャスな樹齢400年の五葉松が配されている。枯瀧付近にリンガ表現の立てられた石がある。小堀遠州が亡くなった9年後に曼殊院が現在地に移転し築庭されているので、小堀遠州の技法を基に、白砂面を島(苔面)と同じ高さとし、島(苔面)との境をクッキリと鮮やかに見せ、島が浮いているように見せ、石を古典風に仰向かせ、サツキなど小さい木々の剪定を丸刈りのみとし、ウエーブのついた大刈込や角刈りを配さなかったことなど小堀遠州の庭を発展させた点も見て取れる。それらから天台座主に任じられ、曼殊院を当地に移転させ、曼殊院門主を務められた良尚入道親王の意向の下、小堀遠州の弟子が作庭したものだと想像した。この庭は小堀遠州の技法を発展させレベルアップさせたもので、小堀遠州の庭と同様に上質な陰陽表現にて気品あふれている。そして小堀遠州の庭よりセクシーな庭となっている。おだやかに空気が流動するよう設計されたのか、比叡山から降りてくる山の香りが庭園中に充満し、上質の香水の香りを感じる。龍門に石橋が架かるなど禅問答的な枯山水庭園で、遠州風の茶室と露地もあるが、小堀遠州作の南禅寺庭園とは別世界である。優雅な美しさがある。良尚入道親王(りょうしょうにゅうどうしんのう)の絵画や華道に対する審美眼を通して遠州庭園を発展させたから武家庭園とは次元が違う優雅な皇族庭園となったのだろう。1656年、良尚入道親王(1623年~1693年)が曼殊院を現在地へ移転し、伽藍を整備した。1681年に曼殊院の門主に任ぜられ、1687年に曼殊院を退院された。父宮に似て芸術を愛され、絵画を狩野探幽(1602年~1674年)・狩野尚信(1607年~1650年)に学び、華道を池坊専好(二代)(1575年~1658年)に学ばれた。1632年(寛永9年)には後水尾天皇(1596年~1680)の猶子となっている。それら文化力がこの庭に織り込まれている。皇族庭園の中でも曼殊院庭園が傑出しているのは小堀遠州の技法の上に、良尚入道親王の文化力が加算されたためだろう。現代庭園には小堀遠州の白砂と苔面とのデザインを発展させ、白砂と苔面にて太極図のようなデザインにしたものが多い。ここ曼殊院庭園を見習い、遥拝先を持ち、和歌、華道などのリズムを取り入れれば更に現代庭園は美しくなると思う。それにしてもこの曼殊院(まんしゅいん)庭園は和歌の中に登場する女性が女神となって降臨しているのであろうかと思うほどに美しい。この美しさは庭の技巧、遥拝、そして皇族文化の相乗によるものだと思う。