1896年(明治29年)軍師、明治天皇が自ら詳細に指示し庭を大改造した。富士山のような形をした、見方によっては陣地、戦場地のような築山を中心にした庭だ。江戸庭園であればこのような築山の背後には山や城があり、借景の中の築山としている。しかし借景はない。本丸御殿の二階から見れば山々が借景となっているのかも知れないが、築山周囲のクロマツなどが大きく育っているので借景山を遮っているはずだ。庭通路から見る限り二階からも借景を持たない築山に見える。天守台から見ると樹木で完全に包まれ築山の識別がつかない。恐らくこの築山はどこかの風景を切り取って来たものだろうから、戊辰戦争から西南戦争までの国内戦跡で、この築山に似た風景地が特定できれば明治を読み解く鍵になるはずだ。多くのクロマツが育っているが、神が降臨する雰囲気にない。本丸庭園は二条城の中にあって特異な雰囲気にある。幸いなことに護国神社など戊辰戦争以降の戦争に関連する神社や石碑が建てられず良かった。先の二条城の記事で書いたが、城上空で多くの神の通り道(遥拝線)が交差し、城全体に神佛が宿る形になっている。二の丸御殿と二の丸庭園は清朝・李氏朝鮮と戦争を起こさない幕府の意気込みを表現している。そのような神聖な城内において、日清戦争直前に改修された庭は清国(清朝)を力で倒す意思表示をしている。敢えて言えば日本文化にも戦いを挑んでいる。この庭から明治天皇は軍国主義者で、封建制度の徹底破壊者だったと読める。表では決して仲良く見せないが、実は極めて仲良かった徳川幕府・清朝・ロシア帝国・李氏朝鮮を憎み、4つの政権を倒し、封建制度を徹底破壊した。この築山は清朝、ロシア帝国に対する宣戦布告だと読める。被差別民の犠牲にて成り立つ封建制度を心底憎んでいたのだろう。天空と築山を見せる単純な庭なので「33天山遯(てんざんとん)隠退隠とんの道」が表現されている。低い身分の西郷隆盛を中心とした明治維新の首謀者達が勢力を増し、築山のように隆起し、天主であった徳川家を象徴する二条城の空気を追い出す様子が表現されている。徳川幕府が作り上げた美の最高傑作の二条城に明治天皇が何故この築山を作ったのか、なぜ江戸時代の本丸建屋と庭を潰したのか、歴史家は検証すべきでは。特に美しい訳でもない庭だが、隠された意味を追求すべきだと思う。将来、歴史の大きな証拠、証言者となるはずだ。