九條池と拾翠亭

良く風が通る拾翠亭から、さざなみ立つ九條池、スダレが掛かる縁側の先に流れる雲、時と共に色が変化する大文字山を眺めていると、池や林を通り抜け冷やされた風が心を通過し、虚心にさせられる。藤原氏を感じさせる風から、藤原氏は常に風向きを把握し、風に乗って行動していたことを思い起こさせられ、風が心を虚にしてしまうほど恐ろしい場所に身を置いていると感じる。茶会に招かれた客は研ぎ澄まされた庭風景の中で、藤原不比等から大政奉還まで約1200年間にわたる藤原氏の歴史と日本文化を背負う九條家当主や藤原氏長者と会話を進めたことだろう。沢池の上に風がある庭は易経「61風澤中孚」誠意内にありを表現している。この茶室と庭は1867年の大政奉還を乗り越えた関白、九條尚忠(1798年~1871年)と最後の藤原氏長者、九條道孝(1839年~1906年)らが活用したのだと思うが、同じように時代が大変化した武家政治への移行期に政治実権を失うも、藤原北家の独占だった摂政・関白職を守った藤原忠実(1078年~1162年)、藤原忠通(1097年~1164年)父子の活躍を中心に「61風澤中孚」に重ね、時代の変化期における藤原北家の活躍について考察することにした。①風澤中孚は、人は信ある節度、節操ある人を信じると教える。長く天皇家、武家、民から信頼され、天皇家と共に歴史を歩んだ藤原北家は人々から身内のように信用され、その行動に節度、節操があった。平安時代末期、白河上皇の院政以降、政治力、影響力は減退するも江戸末期まで天皇家と共に日本人精神の中心にいた。天皇や将軍から命令され動くのでなく、信を持ち堂々と意見を述べ、風を知り、風に乗り続けた最上級の貴族だった。しかしながら傍からは上位の天皇や将軍との関係は確固としたものではなく、下位の民との関係も確固としたものでも無いにもかかわらず、その行動や影響力は大きすぎると見えた。藤原北家が活動的に動けば動くほどに転倒の危険性が大となり、大きなリスクを背負うも、風向きの変化を読み取り、読み取った変化を分析し、信用力、堂々とした行動力、上位の天皇や将軍を説得する力にて危機を乗り越え、いかなる状況でも苦境に陥ること無く、良い結果を出し続けた。1087年、藤原忠実が満9歳の時、1歳年下の堀川天皇が即位し、白河天皇が上皇となった。満21歳の時に関白で有能だった父、師通が亡くなるも、父のような政治力を持たず、白河天皇が執政者となった。継室で後に正妻となった8歳年長の師子は白河上皇の第四皇子を生んだ女御で、白河上皇から譲り受けた。それらから白河上皇に信用される以外、関白に就任できる身ではなかったことが想像できる。白河上皇から師子を譲り受けたのも関白職を手に入れるための手段だったのだろうか。1106年、満28歳で関白に就任した。②藤原忠実が関白に就任でき悦んだ翌年、新風にて水滴が吹き飛ばされるように堀川天皇が崩御し、幼い鳥羽天皇(1103年~1156年)が即位するも、白河上皇に引き上げてもらう以外に活路が無い身のままで、白河上皇の執政が続いた。藤原良房以降、藤原北家の独占だった摂政、関白職を守るため、その立場に甘んじた。結果、摂政、関白職は従来通り藤原北家が独占し、後の五摂家へとつながったが、天皇に替わり執政を行う摂関者ではなかった。忠実が関白となったことで、藤原北家以外の藤原氏有能者が摂政、関白に立つ道を閉ざした。③藤原忠実は白河法皇の意向を心で観て、法皇の近臣に官位を与えるなど、白河法皇に従属し続けた。この行動にて藤原北家が昇位するようにし、摂関家荘園を形成し財政基盤の立て直しを図るが、荘園拡大は白河法皇が警戒し抑制された。④鳥羽天皇の成長に伴い、白河法皇は天皇に指示を出し、天皇の意見を聞く必要性が生じたが、退位した天皇は内裏に入り、天皇と面談することができなかったので、白河法皇は藤原忠実を使い鳥羽天皇に指示を出し、意見を聞いた。一見すると何ら変化が起きない、自ら損を買って出るような役目だが、忠実は法皇に対する心持を変えず、進んで伝言役に徹し藤原北家の立場をゆっくりと上昇させた。⑤白河法皇から養女、璋子を藤原忠実の次男、忠通に嫁がせたいと申し込みされたが忠実はそれを断った。1118年、法皇は璋子を鳥羽天皇に嫁がせ、忠実と約束していた忠実の娘、勲子を鳥羽天皇の后にする約束を破棄した。璋子が嫁いだ翌年、崇徳天皇(1119年~1164年)が生まれたが、法皇との密通による子だと噂された。1120年、鳥羽天皇が勲子を入内させようとしているという噂を聞いた法皇は忠実を呼び出し、忠実に弁明させたが法皇はそれを信じず、1121年、関白職を藤原忠通に譲らせた。1123年、鳥羽天皇を退位させ、幼い崇徳天皇を即位させた。この保安元年の政変は忠実の追い出しを企てた璋子の虚言によるとも言われている。忠実は璋子を忠通に嫁がせる法皇の申込を断り、或いは噂を信じた法皇から疑われ明確な弁明をするも聞き遂げてもらえなかったことで、世間は忠実を至誠、真実の心ある人だと見て、より信用したことだろう。法皇が関白を罷免し法皇の権威を向上させた政変だが、忠実は同情を集めたことで、藤原北家の評価を高めたと思う。⑥ウイキペディアによると「白河法皇は関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が白河法皇の御落胤であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。」と説明されている。事実ならば、白河法皇は摂関家の藤原北家を乗っ取ろうと画策したが失敗し、藤原忠実は藤原北家の血流を守ったことになる。後に平家は中央政界から追い出されたが、藤原北家は武家時代への移行を乗り切ったので、忠実の思慮と決断は正しかった。白河法皇が崩御するまでの1121年から1129年、宇治で謹慎処分となり、移り行く月や太陽を見上げているように、法皇や天皇との親和がなくなり、頼りになる人が少なくなり、更なる処分がされるような危険と隣り合わせの生活を送ることになる。宇治には高祖父の頼通が建てた平等院鳳凰堂があり、忠実名義の広大な荘園、宇治殿領が有ったので再起に備えていたことが想像される。⑦白河法皇が崩御、鳥羽院政となり藤原忠実は政界復帰、1133年、娘・勲子が鳥羽上皇の妃となり、すぐに皇后となった。政界の中枢にいた忠実だが関白として政治改革を行い、行政に関わる法整備を行うなど大きな業績を上げた形跡がない。行いは藤原北家の存続と自らの利のためだけ、摂関職を手放さず、荘園を増やし収入を増やすなど小さな事ばかり行っていたが、これら自身に関わる小さいことはすべて通し、藤原北家が摂関職を独占する地位を守った。⑧政界復帰した藤原忠実が政務を執ると、忠実の次男、忠通は関白としてのプライドを保持すべく動き、父子関係は悪化していく。忠実は忠通に弟の頼長へ関白職を譲るよう要望したので、忠通と頼長との争いになる。1156年、保元の乱が起き、後白河天皇、忠通が勝利した。乱にて重症を負った頼長は亡くなり、頼長側にいた忠実の財産は朝廷に没収されそうになった。忠通は忠実に摂関家領荘園すべてを譲渡させ、藤原北家を継いだ。この乱を策謀した信西が摂関家の地位を更に下落させた。1158年、忠通の知らないところで後白河天皇から二条天皇への譲位が策定され、関白職を四男、基実に譲渡させられ失脚した。戦で政争解決すると戦が続く。1160年、平治の乱が起き信西が自害、忠通は一時的に復権を果たすも、平家政権が形成されて行くことになる。このように摂関家の地位は下降し続けたが、保元の乱直後に父、忠実を説得して財産保全を行っていたので藤原北家の政治力が衰退し続けて行くことが見えている中、豊かさは保持し続けた。⑨上述のように藤原忠通は父、忠実の要望で弟、頼長(1120年~1156年)を猶子としていたが、忠通の跡継ぎ近衛基実(1143年~1166年)が生まれ藤原北家を継がせようとした。それが起因して保元の乱となり頼長は亡くなり頼長の息子も早世した。身内争いの悲惨な結果を体験をした忠通なのに、自身の子供達にも係争が起きた。1166年、関白の近衛基実が早世し基実の長男、近衛基通(1160年~1233年)が家督を継いだ、基通は平家一門の外戚だったので関白になる立場にあったが、幼い基通の代わりに忠通の五男、松殿基房(1144年~1231年)が摂政となった。摂関期間は1166年~1179年。そこから近衛家、松殿家、九條家からなる藤原北家内で摂関職の取り合いが始まった。近衛基通の最初の摂関期間は1179年~1184年。1184年、源義仲の支援を得た松殿基房が三男、松殿師家を摂政にするが期間は約2カ月間だけ、すぐ近衛基通が関白に戻る。摂関期間は1184年~1186年。その次の摂関は忠通の六男、九條兼実で摂関期間は1186年~1196年。次は近衛基通に戻り、摂関期間は1196年~1203年、次いで九條兼実の次男、良経、摂関期間は1203年~1206年、その後は九條家の系列と近衛家の系列による摂関職の取り合いとなる。貴族の頂点に立つ藤原北家が五摂家になり、摂関職は豊臣秀吉、秀次を除き藤原忠通の子孫の五摂家が独占した。五摂家は摂関職を守り続け、これ以上に上昇することがない最上級貴族の地位を維持し続けた。⑩上述の保元の乱、平治の乱で決定打を打った平清盛は近衛基実に娘の盛子を正室として配し、基実の子、基通に娘の完子を正室として配した。松殿基房は平清盛と反目し続けたため、清盛に関白を解任され左遷された。平清盛の死後、松殿基房は娘を源義仲の正室とし源義仲と連携し1184年、三男、師家を摂政にするが、同年、義仲が源義経に討たれると罷免され、再び近衛基通が摂政に復帰した。その後、松殿家は振るわず衰退した。近衛基通の次の摂関、九條兼実(1149年~1207年)は九條家の祖で、九條家から派生した一条家と二条家の祖。兼実の母は武家、藤原仲光の娘。妻、兼子は公卿、藤原季行の娘で、摂政になった九條良経を生んだ。良経の二人の妻の一人は公卿で源頼朝から支援を受けていた一条能保の娘、もう一人は松殿基房の娘。以上から母、妻を通しそれぞれの実家の支援を受けられなければ摂政、関白に就任できない時代になったと読める。易経では「若い女性が嫁ぐことは落ち着くべきところに落ち着くこと。男女の交わりがどのような形であろうと、天地の大きな作用であり、交わってこそ萬物が生じる。」と説明されている。父の命で嫁いだ若い女性が実父や実兄の力を借り、夫がしかるべき地位を得るように協力する。地位を得た夫は妻の実家に見返りをもたらせる。母、妻、娘の働きによって封建時代の歴史が重ねられた。⑪九條兼実の娘、任子は後鳥羽天皇の中宮となった。九條良経の娘、立子は順徳天皇の中宮となり仲恭天皇を生んだ。九條良経の次の摂関、近衛基通の長男、近衛家実の娘、長子は後堀河天皇の中宮となった。近衛家実の次の摂関、九條良経の次男、九條道家の娘、竴子は後堀河天皇の中宮となり、四条天皇を生んだ。更に九條道家の息子、藤原頼経は鎌倉幕府4代将軍となる。このように政治実権は無くとも娘を天皇家に嫁がせる道を回復させ、天皇家との親戚関係を継続させ、天皇家を守る立場を継続させ、天皇家と持ちつ持たれつの関係を回復させた。この関係は春たけなわのような優美さを持つので、傍からは天皇家に従属しているように見えるが日本文化の中枢に居続けることができた。⑫摂関家は天皇家、将軍家の外戚として気品を保つ必要があり、財産保全を行う必要性から常に節約を心がけ、つつましい生活を送り、節度を持って人と接しておられたことが容易に推測できる。節約ぶりから生活に困窮しているようにさえ見えたことだろう。武士の台頭で摂関政治が終わる時、藤原北家は上述の通り時代を乗り越え、天皇家の外戚に居続けることで優美な世界を演出する役割を得た。名だけとなった摂関位ではあるが、その位が権威を付けた。藤原氏を表現した九條池と拾翠亭を活用されたと思う九條尚忠、九條道孝は幕末、明治初期において祖先と同じように大活躍された。にもかかわらず、第二次世界大戦後、貴族の没落を招いてしまう。藤原不比等から明治維新まで約1200年間にわたる伝統的な分析力を十分に使わなったからだろうか。明治時代の急変化に飲まれ風を起こす力を使わなかったからだろうか。明治、昭和の本質すなわち王政復古を十分に分析せず、戦争へと駆り立てる風が正しいか否かを検証せず戦争への風に乗ってしまったからだろうか。藤原忠実、忠通、父子と同じように専ら藤原氏の保身に関わる小さなことを通すことに注力すべきだったのだろうか。明治以降、神々を祖先に持つ藤原氏が多くの宮司を輩出したことは日本文化にとって良かったが、終戦と共に日本の貴族は没落した。