妙心寺退蔵院余香苑

庭出入口の門を潜り庭に入ると、太極図を表現した陰陽の一対の庭がある。門から入って右に陰の庭、左に陽の庭があるので、門を潜ることは門前に広がる余香苑を通り抜け、退蔵院から外に出る意味になる。しかし観光客は余香苑から外へと出ることはかなわず、不思議な世界に迷い込んだような気にさせられる。世の中は変化するもの、妙心寺が住宅に囲まれるまでは余香苑に隣接する先に記事にした妙心寺退蔵院方丈西側の元信の庭は神宿る雙ヶ岡を高く、大きく見せる借景庭園だった。方丈の南側には石清水八幡宮のある男山、生駒山、大和葛城山、大峰山、八経ヶ岳など神宿る山々を直接遥拝できるようになっていた。時代の流れで借景を失うも雙ヶ岡二の丘頂上付近と豊田市若林八幡宮を結ぶ神佛の通り道は退蔵院方丈と庫裏-妙心寺三門-妙心寺長興院-慈眼寺境内-華光寺境内-護王神社-大宮御所-迎稱寺-法然院境内-京都五山送り火の大文字を通過する。退蔵院建屋はこの神佛の通り道に沿って建ち、方丈、庫裏など建屋は神佛の通り道に点在するこれら寺社や聖地を遥拝し、元信の庭は神宿る庭となっている。更に神佛の通り道の両側には吉田神社南に隣接する宗忠神社、陽成天皇神楽岡東陵などがあるので、退蔵院は上空を通過する神佛に守られている。余香苑の人工川の豊富な水の流れは、この太い神佛の通り道と略平行で、多くの神佛を呼び寄せる急流となっており、庭に遊ぶ神佛を連想させるため、急流に迫力があって当然だ。妙心寺大方丈の記事でも書いたが、大方丈庭園の形から江戸時代、妙心寺は民を代表し幕府に意見具申する役割が与えられていたことが読み取れる。江戸初期、御水尾天皇が高僧の紫衣着用の許可を幕府の同意を得ずに付与したがために、幕府は多くの勅許状の無効を宣言した。この幕府行為は天皇の権威を損なうとし紫衣事件が起き、妙心寺の多数の僧侶が幕府に強硬に反発した。それを見かねた妙心寺62世、壽聖院開祖、伯蒲慧稜が妙心寺僧侶は幕府に従うべきと幕府に意見具申した結果、逆に幕府は僧侶4名を流罪、95人の高僧の紫衣をはく奪した。これは安易に幕府に従うべきではない、命がけで反発している僧侶を妙心寺が自らの手で収めるなというメッセージを妙心寺に送ったものだと思う。そのような歴史を持つ妙心寺境内をグーグル地図で見渡すと方丈池、蓮池、智勝院の庭池があるが、天の流れに逆行する水流を使った庭は見当たらない。以前記事にあげた壽聖院には石田三成一族9人の供養塔があり、石田三成を偲ぶ元々建屋以外の借景を持たない枯山水庭があった。今は退蔵院の元信の庭だけでなく桂春院、大雄院など妙心寺の縁にある庭も借景を失っていることから、妙心寺境内全ての庭が借景を失っているように思う。余香苑出入口にある陰陽の庭の陰陽位置から、余香苑は妙心寺の門外にある庭だという意味にも取れ、妙心寺に隣接する斬新な現代庭で、流水が楽しめ、現代という時代を感じることができるという意味に取れる。コンクリートを多用しているので昭和を感じる。余香苑の一番低いところから庭を見渡すと広い天空と、天の下に地下から勢いよく湧き出した水が急流を経て池に勢い流れ込む様子が望める。借景山がないのに地下水が力強く湧き出す姿は巨大エネルギーを感じさせるが故に、まるで天に雷が走っているように見える。これを易経に当てはめると人力の及ばぬ天と雷「25天雷无妄(天の運行の如く)」となり、封建時代が終わり、明治の廃仏毀釈政策及び仏教離れなど、動きがとれない時代が続いていたが、近年、世界中で禅ブームが起き、座禅を中心とした活動が始まり急に忙しくなったことを表現しつつ、現代人に求められる生き方を提唱しているように思える。この現代庭が表現する「25天雷无妄」天の運行の如くと、戦後の日本を重ねると、連合軍に日本が占領され、財閥解体、農地改革、貴族制度廃止など日本の支配層が引きずり落とされ、日本古来の伝統文化の破壊工作が行われ、戦災にて街、工場、設備、輸送網、歴史ある建物と文化財が失われ、大多数の日本人がまともな家に住めず、まともな食事がとれない貧困のどん底に落とされた。その上に日本古来の文化否定、それまでの価値観の否定を押し付けられ精神面でも叩きのめされた時代が思い起こさせられる。その時代の中で革新的な技術開発力、財を生む力、強い意志を持つ多くの人が天の運行の如くに働き、日本に驚異的な復興と発展をもたらせた。それらの人々の行動をこの庭は表現しているように見える。日本の伝統が遮断されるような時代にあって、突如として多くの起業家が出現し、多くの企業が大発展を遂げた。その理由を見せているように感じた。①人は自分の力で乗り越えることが難しい、運命だと思えるような苦しい状況に追い込まれると、誰も助けてくれない、独りぼっちになったと思い込み、そこから逃げ出すことを願うが、忍耐強く苦難を乗り越える努力を続けていると「人は天命に順って生きれば必ず報われる。その自然道理に沿い天の運行のように、自分に嘘をつかず、でたらめをせず、自分がなすべきことを、誠意を持って行えば、他人に認められ、生き抜くことができ、困難打破ができ、成果が上がる」といった天の啓示を受けるものだ。これは人に備わった隠れた能力で、千日回峰行や禅修行、それに似た苦労をしていると、時として天の声が聞こえる。ソニーの井深大氏が本田宗一郎氏のことを「本音ばかりを世の中に示して来た大変稀に見る典型的な例である」と大称賛されたが、本田宗一郎氏は自動車修理工場での丁稚奉公時代、やりたくない子守をさせられ、夜逃げがしたいが親の顔を思い浮かべ夜逃げを思いとどまった。そのような時、天の啓示を受けたのだろうと思う。松下幸之助氏も同じではないかと思う。同じように戦争で家、職場、親族を失い、どん底に落とされた多くの日本人が天の啓示を受けたと思う。戦後日本の力強い復興は天の啓示を受け、天の運行のように働くことを決意した多くの日本人がいたからだと思う。そのような多数の成功者を生み出すことができたのは、日本伝統文化にて育成された多くの人がいたからだと思う。本田宗一郎氏(1906年~1991年)を天の運行の如く生きた方々の代表として、二輪車と四輪車の生産につながった新事業の立ち上げから引退までの道を、天の運行の如く生きる易経の教えと重ね、その結果を考察してみた。②天の啓示を受けた者が懸命に働き、他人に誠意を示しても、すぐ成果が上がる訳ではない。天の啓示に従い行動を開始した頃は、自らがあるべき立場に立ち、やるべきことを行っても、いっこうに成果が上がらない。敗戦の焼の原が広がる時代に天の啓示を受け素直に働いた者は素直で正直な故に往々にパワーを持つ荒っぽいボスに稼いだ金をピンハネされ、小賢しい連中に騙されるなど、あちこちに潜む危機を乗り越えなければならなかった。資金繰りに行き詰まった優良企業が買いたたかれたように1945年、本田宗一郎氏はピストンリング製造の東海精機重工業を手放し、1年間の人間休業を経て、1946年、本田技術研究所設立、通信用エンジンを補修し自転車用補助エンジンキットを製造し販売した。③あちこちに闇市があるような時代に、ピンハネする者や、小賢しい連中と争っても意味が無い。明るく振舞い、一生懸命働いていると仲間が集まり、やがて同士となり事業となる。翌1947年には自らエンジンを開発し拡販を夢見た。その頃、24年後に本田技研工業株式会社の2代目社長となる浜松高等工業学校を卒業したばかりの河島喜好が入社した。本田社長が頑なに守った本音で技術開発すべし志に従う同士ができた。私利、私欲によらず純粋に良いものを作る熱意に惹かれ、その志にて同士になった者は素直なので善く導けば大きく育ち、一緒に成果を創出してくれる。
④他人は志を持ち、懸命に働き、成果を上げ続けている者を見つめている。やがて他人の紹介で思わぬ出会いがあり、大きな前進が始まる。1949年、本田社長は通産省技官の引き合わせで東京にて藤沢武夫氏と出会い、次いで浜松の自宅で会い、藤沢氏を常務にし、会社経営と販売を任せ会社印を渡すも、技術には口を出させない関係を作った。本田社長は自らが抱いた素晴らしい乗り物作りの志のために会社経営を手放し、技術に専念、次々と新しいエンジンそしてオートバイを生み出し始めた。藤沢常務は本田社長の志と夢実現のため、すぐ東京に工場を建て、拡販を始めた。⑤生み出されたオートバイが事業を順調に伸ばした。本田宗一郎社長は実質経営者である藤沢武夫常務に従い、大発展する夢実現の旅へと出た。従業員20数名の会社が5年後には1万人を超えた。従業員同士が親和するスピードをはるかに越えた急成長、夢にも思わなかった急成長は本田社長の硬い志があったからこそ実現したものだったが、急成長が従業員同士の親和より、志を基にした夢実現を優先する社風となり、ホンダは夢を追い求め成長し続ける使命を帯びた会社になった。⑥1954年、不況と重なり突然の販売不調が起きた。次いで、新型ドリーム号4E型にエンジントラブルが発生し、新型車種の販売停止に追い込まれた。前年、多くの機種の販売、そして新型車による拡販を見込み4億5千万円の設備導入していたため、手持ち現金10万円しかないのに手形1億円を落とさなければならない事態に追い込まれた。すぐ藤沢常務は生産調整を実施、外注先から購入した部品の分割払いを行い、本田社長はドリーム号4E型エンジントラブルを解決し、販売回復し倒産危機を乗り越えた。財務危機回避後、藤沢常務は銀行に夢を語り2億円の融資を受け、株式店頭公開を行い、資本金を増やしホンダを近代的な会社とした。生産調整で消沈した社員に夢を持たせるため、藤沢常務は本田社長にマン島レース参加を促し、欧州視察へ送り出した。欧州オートバイの速さに驚いた本田社長は有り金すべてを部品購入に充て帰国した。本田社長は藤沢常務に一度たりとも設備を買って欲しいと言ったことは無く、1953年に藤沢常務が買ってくれた設備を本田社長は引退まで使い続け、一部は今なお使われ続けている。そして1959年にマン島TTレース125㏄に初参戦、1961年に125㏄/250㏄で優勝した。本田社長は技術と向き合い、藤沢常務が経営と向き合うことで、部下である同士ができ、協力者ができ、同士と協力者の奮起にて難局が乗り越えられた。難局を乗り越えられただけでなく社内外の問題整理ができ一流メーカーとなれた。⑦1959年、小型オートバイ市場が存在しなかったアメリカにアメリカン・ホンダ・モーターを設立、アメリカ駐在となり、後に専務となる川島喜八郎氏がレジャー用小型オートバイ市場を創作し、アメリカで小型オートバイを大量販売する道を開いた。アメリカ進出以前、日本では年30万台のオートバイを生産する日本一のメーカーになっていたが、世界ではまだまだ弱小メーカーであり、アメリカでの成功で世界企業への道に進むことができた。それは巨大で豊なアメリカのマーケットがあったからこそで、ホンダはアメリカで自らの実力を存分に発揮することができた。その根源は本田社長と同士である技術陣による地道なオートバイ性能の向上、新型車開発に有った。派手な大発展の基盤は技術者の地道な努力にあり、今もホンダの社長は技術出身者に限られていることからしても、ホンダは地道な技術開発を経営の基本とされていることが読み取れる。正に志を抱いた人が私欲なく純粋に働けば同士ができ、大成功できる儒教の教え通りの成功物語だ。⑧1963年に控えた四輪車輸入自由化に備え、運輸省は国内自動車産業を整理し既存メーカーに生産を集中させ、自動車産業を存続発展させようとした。それに反発した本田社長は運輸省から生産開始の許可を得るため四輪車製造の意向を表明し、1962年、年初より四輪車開発を始め、同年6月、建設中の鈴鹿サーキットで本田社長自らスポーツカーS360を走らせて宣伝し、翌1963年8月に軽トラックを、10月にはスポーツカーS500の販売を始めた。国と民間が一体となって世界に通用する四輪車の製造を目指していた時流に乗り、王道をまっしぐらに進む如く、極めて短期間にて四輪車メーカーになり、1965年メキシコ開催のF1グランプリで日本製マシーンとして初優勝を果たした。好調な二輪車海外輸出で得た利益を四輪車開発に向ける幸運に恵まれていたが、時流に乗れたのは本田社長と同士の無心の技術開発の賜物だった。天から降りて来て身を守ってくれる神の導きに沿い、国の定めた法律に従い、真摯に法律に適合した四輪車を作り上げ、謙虚に公表し、販売したように見える。慎重に開発、販売しなければこれほどうまく業界参入できなかったと思う。しかし、当時の四輪乗用車市場はトヨタ、ニッサンが一二を争う世界であり、後発のホンダ車はあまり売れなかった。本田社長はトヨタ、ニッサンより良いエンジン開発すれば競争に勝てると読み、エンジン開発に熱中した。⑨1966年4月アメリカで順調に売れていたスーパーカブが突如、全く売れなくなった。日本では年40万台のオートバイが売れているのにも関わらず、年末頃にはアメリカで30万台の在庫の山となるような、社員が首をかしげるような状況が発生した。6月、藤沢副社長が渡米しアメリカの好景気が続いていることを体感、形を変えずに排気量だけを変え需要喚起してきたスーパーカブがアメリカ人に飽きられたと読み、帰国後すぐ本田社長に年末までにオートバイの外観をスポーティなものにするよう要望し、翌年、外観だけを変えた新型車投入で市場を回復させた。販売不振に陥っても在庫品を無理に販売せず、先ずは素直に顧客の嗜好変化を読み取らなかったことを反省し、目新しい新型車を本田社長に開発製造してもらい、在庫品をダンピング訴訟されない範囲内で値引き販売し、翌年の新型車投入で市場回復したことを見極めた上で在庫品を旧型車として値引き販売し在庫一掃した。このように藤沢副社長は一見、愚かなように見える行動にて大問題をいとも簡単に解決した。以降、ホンダはマーケットを冷静に読むようになった。1979年~1983年に起きたHY戦争ではマーケット変化を的確に予測したホンダが勝った。⑩1968年1月、2輪車累計販売数が1千万台を突破した。同年3月に販売開始した軽乗用車N360が当時としては驚異的なエンジン性能を備えていたので、爆発的に売れ出し、初の量産車となった。二輪車では1969年、量産二輪車初の並列4気筒エンジンを搭載させ、世界初の最高時速200kmを突破したドリーム CB750 FOURを発売、世界一のバイクメーカーになった。同年、初めて小型乗用車ホンダ・1300の販売を開始、更に好調な生産販売となった。外からは何もかもうまく行っているように見えていたが、内では本田社長の同士だった技術者達が本田社長に大きな不満を溜めていた。⑪本田社長は販売開始したホンダ・1300の空冷エンジンに満足せず、引き続き空冷エンジン開発に熱を上げていたが、同士である技術者達が提案する成功への近道の貴重な技術意見を無視し、自らが夢画いたエンジンを作り上げることに邁進し続けていたがために、同士達はホンダ発展のためには本田社長に技術から降りてもらいたいと願った。同士達は空冷エンジンでは競争に勝てない、すぐに本格的に水冷エンジン開発をスタートさせなければならず、その決断には一刻の猶予も無いと考え、藤沢副社長に直訴した。藤沢副社長は品質を追求しコスト高い車を作る本田社長の行動に疑問を感じていたことから会社発展の観点から同士達の直訴に同調した。更に排ガス規制への対応が控えていたので、藤沢副社長は意を決し本田社長に「社長としての道をとるか、技術者としてホンダにいるべきか、どちらかを選ぶ時に来ているのではないか」と詰め寄った。本田社長は「社長としてとどまるべきだ」と判断、水冷エンジン開発許可を与え、空冷エンジンの開発を止めた。引退後に藤沢武夫氏の言葉をまとめた「経営に終わりはない」著作の中で「しかし、いま私は、本田に空冷で研究開発させてあげたかったなと思っています。彼の才能をもってすれば、空冷でもきっとやり遂げられたでしょうから。」と後悔されていた。
1970年、ユーザーユニオン事件が発生、N360運転中に死亡したドライバー遺族から、未必の故意による殺人罪で本田社長が東京地方検察庁に告訴された。それが原因でN360が売れなくなり1972年に生産販売が終わった。ユーザーユニオンを支援していたのは過去に販売地域の枠を超えての販売戦略を嫌い、ホンダを離れ、その後のホンダの発展をうとましく思った元代理店主であった。この事件によって自動車業界全体が生産販売第一主義から脱皮した。次々と驚くようなことが起きたが、藤沢副社長の冷静な分析と対応にて結果的に大きな出費もせず、すべて良い方向へと吹く風に乗ったような解決ができ、更なるホンダ発展の礎が築かれた。⑫創業当初より本田社長は藤沢副社長と、お互いの身内をホンダに入社させない約束をしていた。そのためホンダに入社させることができなかったが、ホンダを背負っても良いほど車好きだった次男を1973年3月に自動車事故で失った。同年、藤沢副社長がホンダの将来を考え、後輩を育てるために副社長引退を決断、本田社長もその意をくみ取り引退を決断。両名共に取締役最高顧問となった。両名が出会って僅か25年目、乗り物を開発し作り続ける本田社長の志が遺伝子となり一人歩きし続けるよう、共に会社を去り、志と夢を後輩につないだ。1983年、両名は取締役も退き、本田取締役最高顧問は終身最高顧問となった。二人は嘘がない、心の底から湧き出す真の愛の心で結ばれていた。愛の心で結ばれ活動されていたので、同士である従業員に信用され、社会に信用され、次々と発明を繰り返し、新製品を売り続けることで、夢を追いかけるホンダブランドを確立した。本田社長の偏狭と思えるほど、しつこい開発心は今も引き継がれているように見える。天の運行の如く活動する人の歩む道を振り返ると、志を立てスタートした時点は他人に足を引っ張られ、なかなか芽を出せないが、志に同調する同士ができ、思わぬ出会いで協力者が現れるとたちどころに芽が伸び出す。同士を育成することで大発展するが、やがて志が独り歩きを始める。後輩の同士達が実力を付け、先輩の実力を追い越し出すと、志を中心に回る組織は志を立て最初に天の運行の如く活動して来た先輩を後輩が追い出すようになる。逆説的に言えば志を立て天の運行の如く活動して来た先輩が追い出されないようでは、先輩の志は本物ではないということだ。先輩の志を引き継いだ後輩が先輩を追い出し、その後輩も後に続く志を同じくする同士に追い超され、追い出されてこそ本物の志が生き続ける。弟子が師匠に勝つことを恩返しとする人力の及ばない力を求める相撲の世界と全く同じだ。人力の及ばぬ力を手に入れる志を持ち、それを求め続ける相撲が栄え続けているように、志が生き続ける会社はうまく商売が回り続ける。後輩が引き継いだ志は日々、地道に改善、改革が続き、昇り続ける。先輩と後輩が再び元の位置に戻ることは無く、後輩から後輩へと志が伝え続く。硬い志は柔軟に変化し続け、時代を乗り越え続ける。世間からは志を持つ組織や人はこれ以上に強いものが無いように見え、人間界の頂点に立ち続けているように見えるので、妬みの対象になりやすい。妬みを避けるため、志を守り続けるために、志の継承者は不正を行わず、世間と共に、時代と共に歩み続ける姿勢を保ち続けなければならない。志の継承者は、成功すればするほどに自らを越える弟子、後輩、同士を育てる義務を負わされ、自らは品行方正に過ごさなければならず、窮屈な日を過ごすことになるが、志は人力を越えた力を発揮し、人々を導き、社会発展に寄与するので、志の継承者は窮屈な日々の中で奮闘し続けることになる。自然界における強い雄ライオンがボスとなりライオンの遺伝子をつなぎ続ける姿と同じで、現代社会は強い志を持つ人、或いは先人の志を継いだ人が人力を越えた仕事を行い、志を生かし続けている。その姿がどのようなものかをこの庭は見せている。
日本の伝統的な江戸庭園は人間社会も自然の一部であり、自然から学ぶことを提唱して作られ、鑑賞者に語りかけているのに対し、力を誇示する現代庭園は鑑賞者に押し付けるような何かを叫んでいるような、不自然さがあり、私はあまり好きではなかったが、この庭から現代庭園は日本文化が外国勢力に否定されたことを出発点として、日本人が持つ文化力で現代日本人に生き方の提唱をしていることを学んだ。本記事では浜松市 清瀧寺と本田宗一郎ものづくり伝承館で撮影した写真を加えた。