正暦寺福寿院庭園

山間を流れる菩提仙川に接した正暦寺福寿院は、客殿から庭先に広がる菩提仙川対岸の山を鑑賞するようにしている。典型的な借景庭園で山の稜線に合わせ石を並べ、ドウダンツツジ、ツツジを借景のさまたげにならないよう刈り込み、瓦屋根を付けた緑に映える白壁の築地塀の先に多くのカエデを育て、庭のドウダンツツジとカエデと共に内から外に若葉と紅葉を楽しむようにしている。庭南側の貴人門から客殿縁側まで飛び石で繋げ、外から直接屋内に入れる。撮影禁止だったので正暦寺パンフレットを掲載させて頂いた。藤原氏一族が使用した上段の間がある客殿縁側に座り、渓流音、鳥の鳴き声を聞きながら、ツツジの花に集まり舞う蝶を眺め、太陽光を受けて鮮やかな緑を放つ山の樹木を眺め、上空の雲の流れを見ていると、世界中の貴族の中で最も長い歴史を持ち、現在につながる藤原氏はこの庭に画かれた世界の中で生きていると感じた。風が通る渓流、風を感じさせる山の樹木群、流れる雲の情景を易経に当てはめると「57巽為風(風の如くに従う)」となる。この卦を起点にして藤原氏についてウイキペディアの記事を抜粋して考察することにした。①明日は何が起きるか判らない政治の世界、明日はどんな風が吹くのか想像できない。風はあらゆる隙間に入り込むので、容易に風から逃げられない。民は風に従い、風となった命令に従うしか生きて行けない。中臣鎌足(614年~669年)は政権を握っていた蘇我入鹿を排除するため中大兄皇子(626年~672年)と結び付き645年クーデターを起こし、入鹿を殺害、入鹿の父を自殺に追い込み、風を吹かせる権利を得た。そして藤原の氏姓を賜った。風を吹かす者、吹かされた風に従う者、両者に必要なことは正しい風を吹かせること。風に乗る者は吹く風が正しいか、正しくないか判断した上で乗ること。正しい風を吹かせられなくなった権力者、正しくない風に乗った者は自然淘汰される。② 実質的な藤原氏の始祖で、天智天皇(=中大兄皇子)の落胤説がある藤原不比等(659年~720年)は蘇我娼子と結婚し大臣クラスの蘇我氏身分に加わり成功への道を歩き始めた。大宝律令の編纂で政治の表舞台に出た。そして長女、宮子を第42代文武天皇夫人にした。風を吹かせる藤原氏は天の象徴である天皇を、娘を通じ押さえつけることができた。風が天を押さえつけることができるのは短期間であっても、重要な政策決定において娘を活用し、自らに利がある風を吹かせ、天皇に自らに利が有る決定をさせた。③藤原不比等と娼子との3名の息子、五百重娘との1名の息子による藤原四兄弟が中央政界で大活躍した。長女、宮子は第45代、聖武天皇を生んだ。娘、光明子(701年~760年)を聖武天皇に嫁がせた。親子の天皇にそれぞれ娘を嫁がせたことで、天皇に藤原氏の娘を娶らせる慣習を作った。聖武天皇と光明子との間にできた娘(718年~770年)が、後に第46代孝謙天皇、次いで第48代称徳天皇となった。家の中で人が集まるのは火のある所。火が風を起こし、風が火を強める。火を使う台所、風が通る食堂や居間を整え、夫が夫らしく、妻が妻らしい行いをすれば明るい家庭が作れる。そして息子、娘への躾教育が行き届く。特に娘への貞節教育が行き届く。藤原不比等が強大な藤原氏を作れたのは蘇我娼子と二人で正しい家を作り上げたからだと思う。歴代天皇が藤原氏の娘を娶り続けたのも正しい家作りの教育を受けた娘を求め続けたことにもあると思う。長男、武智麻呂も娘の南夫人を聖武天皇に嫁がせ、次男、房前も娘の北夫人を聖武天皇に嫁がせたが皇子は授かれなかった。藤原四兄弟の団結力は強く、藤原氏が最も脅威とした皇族の嫡流である長屋王一族排除行動を起こし、長屋王一族を消滅させた。729年、長屋王の変から10年後、藤原四兄弟全員、天然痘にかかり亡くなった。人々は長屋王の祟りだと噂した。藤原氏は自らが生存するため、政敵となりうる者は容赦なく消滅させてしまう。しかし家庭においては正しい家作りし、天皇家に嫁がせる娘を排出し続けた。④藤原四兄弟中、不比等の次男、房前(681年~737年)が最も政治力があり、藤原北家の祖となった。房前の次男、永手(758年~793年)は娘の曹司(758年~793年)を第49代、光仁天皇に嫁がせたが子ができなかった。房前の三男、真楯(715年~766年)は北家真楯流の祖となった。真楯の3男、内麻呂(756年~812年)は平安京遷都の責任者を務めた。内麻呂の次男、藤原冬嗣(775年~826年)は長女の順子(809年~871年)を第54代、仁明天皇の女御にし、第55代、文徳天皇を生んだ。818年、冬嗣が中心となり法律に修正を加えて弘仁格を発布した。藤原冬嗣には封戸を貧しい人に配った美談がある。凶作続きの818年前後のことではないかと推測する。内麻呂・冬嗣親子の活躍にて藤原北家が藤原氏の中心となり、その後の発展の礎を作った。民を潤す国家の土木事業、自らの富を民に与える行為。国家が財政出動という損をし、富を持つ者が富を放出し損をする行為は民を益するので、損が損では終わらず、益が生ずると言われるように、藤原北家は大発展した。房前の五男、魚名(721年~783年)の系列、魚名-末茂-総継の娘、沢子は54代、仁明天皇の女御となり、58代、光孝天皇を生んだ。藤原南家を立てた不比等の長男、武智麻呂(680年~737年)の系列は優秀な次男、仲麻呂(706年~764年)が道鏡を排除するために起こした764年の藤原仲麻呂の乱の失敗にて、あまり振るわなくなったが、多くの支流、分家、そして多数の地方武家を生み出した。藤原式家を立てた不比等の三男、宇合(694年~737年)の長男、広嗣が740年、聖武天皇が極度に恐れるほどの藤原広嗣の乱を起こした。官軍に平定され、広嗣と弟の綱手は処刑、他の弟達は流罪にされた。この事件で式家は振るわなくなった。(宇合の次男)広嗣の弟、良継(716年~777年)は流罪の2年後赦されるも出世は遅かったが、764年、藤原仲麻呂の乱を平定する功績を上げた。良継は娘の乙牟漏を第50代、桓武天皇に嫁がせ第51代、平城天皇、第52代、嵯峨天皇を生んだ。宇合の8男、百川(732年~779年)は長女の旅子を桓武天皇に嫁がせ、第53代、淳和天皇を生んだ。次に娘(旅子の妹)帯子を第51代、平城天皇に嫁がせた。藤原京家を立てた不比等の四男、麻呂(695年~737年)の系列、麻呂-浜成-大継は娘の河子を第50代、桓武天皇に嫁がせ5名の親王・内親王を生んだ。藤原四兄弟の子孫はそれぞれの娘を歴代天皇に嫁がせ次期天皇を生ませ、或いは藤原氏の実力を天皇に見せつけることで、藤原氏と天皇家を風と雷のような関係とし、両者は相互に助け合い益する道を進んだ。⑤藤原北家、冬嗣の次男、良房(804年~872年)は842年、藤原氏による最初の他氏排斥事件、承和の変を起こした。嵯峨天皇皇女を娶っていたこともプラスしたのか、敵対勢力に大打撃を与えた。皇族以外から初めて摂政に就任した。良房は長女の明子(829年~900年)を第55代、文徳天皇に嫁がせ第56代、清和天皇を生んだ。冬嗣の長男、長良(802年~856年)は娘の高子(842年~910年)を清和天皇の女御とし、第57代、陽成天皇を生んだ。冬嗣の五男、良相(813年~867年)も娘の多美子を清和天皇の女御とした。冬嗣の六男、良門の次男、高藤は娘の胤子を宇多天皇の女御とし第60代醍醐天皇を生んだ。良房は人力が及ばない天と雷が作り出す天の運行のような善政を行ったのだろう。藤原北家が盛える礎を築いた。⑥藤原長良の三男、基経(836年~891年)は叔父、良房の養嗣子となり藤原北家を継ぎ、清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇に仕え、政治実権を握り続け、これまでの藤原氏最高位の関白に就任した。基経は娘の温子(872年~907年)を第59代、宇多天皇の女御とした。娘の穏子(885年~954)を第60代、醍醐天皇の中宮として第61代、朱雀天皇、第62代、村上天皇を生んだ。866年、基経は応天門の変を良房に協力して解決し多くの名族に打撃を与えた。878年に起きた元慶の乱を解決した。879年、日本文徳天皇実録全10巻を完成させた。879年から数年かけて班田収授を実施した。基経の妹、高子は清和天皇の女御で陽成天皇の母、その子、陽成天皇が乱暴者だったので884年に退位させた。妹、高子と対立していたので、高子の二人の親王を天皇とせず55歳の光孝天皇を擁立し第58代天皇に即位させた。基経は噛み砕くようにして内部を整えようとするも、宮中に多くの障害があり、なかなか噛み砕けなかったので、稲光と雷の関係のように、稲光が走るように決断し、雷を落とすように実行する政治家であった。河内源氏の祖、清和天皇(850年~881年)の在位期間は858年~876年、幼い時に即位し、幼い子に譲位して出家し早死にした清和天皇、後に清和天皇の子孫が大発展した要因は清和天皇在位中、良房と基経が善政を行い支えたこと、清和天皇の多くの幼い子達への養育を行い続けたからだと思う。基経の稲光と雷のような善政が清和源氏を生み出したのかも知れない。⑦藤原基経の長男、時平(871年~909年)、及び四男、忠平(880年~949年)、両兄弟にて光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇に仕えた。共に関白にまで昇任した。時平の娘、褒子は宇多上皇に見染められ仕える。忠平の妻は宇多天皇の皇女、順子。忠平は長女の貴子(904年~962年)を醍醐天皇の皇太子の妃とした。901年、雷と地震が同時に菅原道真一族を襲うような昌泰の変を起こし、菅原道真を大宰府に左遷し、子孫らを流罪にした。903年に道真は亡くなった。909年、時平が若くして亡くなったのは道真の怨霊によるものだと噂された。930年、清涼殿落雷事件が起き、時平の命で大宰府にて道真を監視していた藤原清貫が焼死、昌泰の変を批准した醍醐天皇は清涼殿での惨状にショックを受け3カ月後に崩御した。しかしながら道真が画策した政治改革案は優れたものだったので、時平はその改革案に沿って延喜の治をスタートさせ、忠平が改革を受け継いだ。雷と地震のような事変を起こし道真を排除、道真の改革案をそのまま延喜の治として行い、土地への課税政策につなげて行き、藤原北家の功績とした。⑧藤原忠平の長男、実頼(900年~970年)、及び次男、師輔(909年~960年)兄弟は947年、兄が左大臣就任、同時に弟が右大臣に就任し、兄弟で村上天皇を輔佐した。後にそれぞれ関白に就任した。両兄弟の治世は震いたった雷のような善政だったのか、後年、天暦の治と評価されている。実頼は娘の述子を、師輔は娘の安子をそれぞれ村上天皇の女御にした。安子が第63代、冷泉天皇、そして第64代、円融天皇を生んだ。藤原北家は天皇の外戚となった師輔が継いだが実頼より先に亡くなったので、実頼が摂政に昇進し執政した。地上に雷が鳴るのは春の訪れ、巨大な実力と財力を蓄積させた藤原北家を率いていても、すさまじい政治闘争を潜り抜けた人ほど謙譲心があるので、悦びごとが絶えなかったはずだ。気の緩みが生ずるほどの成功を重ねていたと思う。⑨藤原師輔の長男、伊尹 (924年~972年)、次男、兼通(925年~977年)、三男、兼家(929年~990年)らは村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇に仕える。冷泉天皇、円融天皇を生んだ兄妹の安子が村上天皇の寵愛を受けていたこと。伊尹の長女、懐子(945年~975年)が冷泉天皇の女御となり65代、花山天皇を生んだことで、3名は極めて優位な立場にいた。967年に起きた藤原氏による他氏排斥事件、安和の変は右大臣、藤原師尹(920年~969年師輔の弟、忠平の5男)が左大臣、源高明を失脚させるため企てたと言われている。兼家は長女の超子(954年~982年)を冷泉天皇の女御とし、第67代、三条天皇を生んだ。次女の詮子(962年~1002年)を円融天皇の女御とし、第66代、一条天皇を生んだ。まもなく藤原氏の栄華時代が訪れることを予感させる。しかし栄華は驕りが生じ、変化への対応が遅くなり時代に取り残され、欲張った政策で収束できない事態を迎えてしまう。藤原北家内での嫡流獲得争いも暗い陰を落とし始めていた。嫡流獲得争いは多くの女性がからむので複雑となり、嫉妬、羨望、恨み、嫌悪などマイナスの感情を陰に生じさせ、疑心暗鬼が生じ団結心、協調心を阻害する。⑩藤原北家嫡流となった兼家の5男、道長(966年~1028年)は北家内部闘争を勝ち抜き左大臣となった。長女の彰子(988年~1074年)は一条天皇の皇后となり、第68代、後一条天皇、第69代、後朱雀天皇を生んだ。次女の妍子(994年~1027年)は三条天皇の皇后となった。娘の威子(1000年~1036年)は後一条天皇の皇后となり、章子内親王(後冷泉天皇の皇后)、馨子内親王(後三条天皇の皇后)を生んだ。恒に変わらぬ藤原家の道を歩いた道長は、三条天皇と次女の妍子が対立すると、三条天皇を退位させ、幼い、後一条天皇を即位させ摂政となる。翌年には摂政を長男、頼通に譲るも実権は握り続けた。そして承和の変以降続けられて来た摂関政治の最盛期を迎えた。道長は荘園の寄進を受け続け莫大な富を得た。その陰で、荘園経営において管理者が武家となる道をつけてしまった。藤原北家以外の他系の貴族、寺社が一斉に荘園を増やしたことで国による土地の統一管理が難しくなり、税収入不足となる道をつけてしまった。藤原北家の富と権勢が増えれば増えるほどに足元が弱くなり続けた。⑪藤原道長の長男、頼道(992年~1074年)は父が敷いてくれたレールの上を、父の指導通りひたすら走り続け、藤原家全盛を継続させた。地表を突き破り上に上にと成長する樹木のように、小さく戻れない、後戻りできない成長を続けた。上述のように姉、妹が天皇に嫁ぎ、次期天皇、時期皇后を生んでいるので、安定した執政が行えた。しかし長女の寛子(1036年~1127年)を後冷泉天皇の皇后とするが子には恵まれず、摂関政治の終わりを迫らせた。1019年、刀伊の入寇による武家への報償対応に追われた。1028年~1030年、関東地方で平忠常の乱が起き解決はしたが、乱を平定した河内源氏が東国で勢力を拡大する契機を作ってしまった。1051年~1062年、陸奥国の土着で有力豪族の安倍氏が岩手県北上川流域に城砦を築き、半独立的な勢力を形成し、朝廷への貢を止めたので、国府軍派遣による前九年の役が起きた。役を解決した河内源氏を筆頭に武家が台頭して来た。1069年の延久の荘園整理令により、多くの荘園を没収され、収入減となり大打撃を受けた。天皇家が藤原北家から執政権を取り返し、自ら政治を行う院政、上皇の命令を実行する武家、次の時代が迫って来ていた。これ以上の成長ができないほど巨大になった樹木だが、足元の水脈が変化し始め、十分な水分補給が受けられなくなろうとした時期に頼道は亡くなった。⑫藤原頼道の長男、師実(1042年~1101年)→師実の嫡男、師通(1062年~1099年)→師通の長男、忠実(1078年~1162年)→忠実の次男、忠通(1097年~1164年)と藤原北家の嫡流は続き、摂政、関白職、大臣職を守った。師実は父、頼道の路線に乗り続け白河天皇との関係も良好なものだったが、陰で村上源氏の台頭という時代の流れが進んでいた。1086年に白河天皇が譲位し、白河上皇となってから院政時代が始まり藤原北家は名だけの摂関職となった。1156年、皇位継承問題と忠実と忠通の対立により保元の乱が起きた。結果、藤原北家は政治の自立性を失い、政治の決定権が天皇家に完全移行した。忠通は藤原北家が生きのびるため藤原北家が天皇家に引き上げ続けてもらうことを慣習化すべく尽力し、忠通の直系子孫のみが五摂家として幕末まで摂政・関白職を独占することになった。易経48水風井(養いの井戸)のように、地下に流れる水をつるべと桶によってくみ上げる。つまり地下に脈々と流れる藤原北家の人材を天皇がくみ上げてくれる慣習を忠通は作った。幕末まで摂政・関白職は豊臣秀吉、秀次の2名を除き、忠通の子孫により世襲された。忠通は風を吹かす権利を手放さず、天皇家に寄り添い続けることができ、摂政・関白職を守った。江戸時代においては娘を天皇家、徳川家に嫁がせ続け、天皇家と将軍家に引き上げ続けてもらった。以上を振り返り、藤原氏は政争に負け没した者も少なくないが、どのような事件に遭遇しても落ち込むことが無い。何事が起きても落ち込まず、常に生き残るための最善策を探り、大風を吹かせ、雷を落とすように行動し生き抜いて来られた。時代を乗り越え続けられた根本要因は正しい家庭作りにあったと思う。奈良には談山神社、安倍文殊院、春日大社、興福寺、正暦寺があり藤原氏を偲ぶことができる。談山神社の小さな、形良い五輪の藤原家の現代墓が貴族の生き方を象徴しているように思える。以上の藤原氏の歴史から日本民族は藤原氏、源氏などを介し間接的に歴代天皇いずれかと女性遺伝子を通じ血縁関係にあると言えるのではないだろうか。