御堂筋の裸婦像 (1)

裸婦像のモデルは少女、完成度は高いが、雑多な日本風景に同化しない。京都府立植物園の欧風庭園に多くの裸婦像が並べられているが、植物の中に埋没している。裸婦像が映えるのは欧州の統一的な建物が立ち並ぶ街だが、日本は統一性のない雑多なビルが林立し、雨が多く、湿度が高く、芸術像展示に不向きだ。御堂筋のビジネスエリアに集中して裸婦像を設置したのは、道行くビジネスマンに裸婦像を見せたかったからだろう。バブル景気が終わった頃、裸婦像が御堂筋に設置されたと記憶するが、裸婦像が設置されて以降、御堂筋界隈のビジネス活気が下降し始める。交通便利な梅田再開発が進んでいることにも起因するが、ビジネスの先端を進む企業が次々と拠点を梅田に移し、大阪の商業中心地だった御堂筋は斜陽企業の街へと向かっている。景気変化は日常だが、ビジネスは中断しない。うまくビジネスを回す陽の極みだった御堂筋に、陰の裸婦像を設置したことで、陰風が吹き込まれ、御堂筋の陰りが始まった。裸婦像たちは陰りの入口、退廃の入口を予感させる。芸術街にあるべきものをビジネス街や生活街に置くと差し障りが出て当然だ。日本、中国、朝鮮は陰を招き入れる裸婦像を忌み嫌っていたようで、近代以前の裸婦像は見かけない。御堂筋の裸婦像に服を着せた事件は、日本人の本性を見た事件だった。吹田市の二つの駅前に踊る少女像があるも、地元の人は無視している。これらのことから裸婦像設置指示者は日本人を堕落させたい外国人だと読める。裸婦像を設置されても日本人の本質は変化しないが、日本の社会発展やGDP増加が阻害される。ビジネス街や生活街にふさわしくない裸婦像だが、匂い、温もり、気分を感じさせる完成度の高い芸術品で、豊満な立ち姿の少女像は、少女が一人前になったばかり、これから迎える運命の波にどのように対処すれば良いのか判らず、うろたえている。自らの居るべき場所を得ておらず、心が落ち着かない。自らの居るべき場所を掴む強い意思を持っていないので、恋が良い方向に向かうとは思えないような表情をしている。生命力あふれる少女裸婦像のしぐさは、少女が男を追う姿をしている。美しい体は良き伴侶を得るためにある。男女ともに伴侶を得てこそ人生が整う。それは自然で、逆らうことができない。少女の姿が美しいのは自然なこと、自らにふさわしい伴侶を求める性が画かれている。少女裸婦像は、少女に待ち受ける恋愛、失恋、結婚、懐妊、出産、子育てなどを予感させるもので、未だ何も決まっていない、何ら安定した立場を得ていない少女時代を表現している。人生の中で一番、健康で美しく、整った体を持つ時なのに、心は不安定。それを見せるゆえに魅力ある。鑑賞者を共感させ、心を動かす。