上徳寺

明治に移築した本堂、再建された書院なので遥拝先はないと思っていたが、グーグル地図で調べると江戸時代の建屋と同じ向きに移築、再建されたのか本堂は韓国、桐華寺を遥拝し、書院は久能山東照宮を遥拝していた。書院から久能山東照宮を遥拝する線下には清水寺鐘楼-地主神社-天智天皇山科陵 (御廟野古墳)参道-膳所城跡-草津市弁財天神社-甲賀市下山北城跡-刈谷城跡-刈谷市正覚寺-知立市西中貝塚-秋葉寺があり、遥拝線両側には古代からの祭祀場所、小さな寺社が点在している。書院が東照宮と多くの寺社などを遥拝し、それら聖なる気を取り込む向きに建っているので、明治に作られ、手を入れ続けられている庭は、本来ここにあった遥拝庭に戻っていると思った。或いは元あった庭を基に改築したものが、元の姿に戻る途中なのかも知れない。基本は明治に作られた庭なので、明治天皇を象徴する天空の上昇に逆行する水を見せず、明治天皇に忠節を誓う枯山水の富豪庭であるはずなのに、庭中心石と対話する位置に蹲状の形をした手洗い用の石鉢が置かれ、そこには水が満たされている。庭南側の大きな手洗い鉢にも水が満たされている。いずれの石鉢も蓋がされず水を見せている。庭中心石近くに井戸があり、井筒の頭には蓋がされているが、地下水川が庭下に流れていることを強く暗示している。次に枯山水の枯川に目をやると、庭中心石付近から枯水が湧き出し、ぬるりとした石で護岸されたところを勢いよく流れているように見せ、南側の手洗い石鉢付近から流れて来た枯水と合流し南から北へ流れて行くように見せている。しかしながら当地すぐ東には勢いよい鴨川があり北から南へと流れている。大きな高低差がある京都市内の地下水の流れも庭の枯水の流れと正反対だと思う。現在、大量の地下水を吸い上げている京都市内においても、湧き水がいくつか残っており、京都人にとって地下水は身近なもの、枯水の流れが地勢と逆行していることは京都人、及び京都を知る人ならすぐ気付くことである。以上のことから、徳川家康の側室、阿茶の局(雲光院)と泰栄院の墓を守り続けている本寺の庭は面従腹背、うわべだけは明治政府に従うふりをし、実は徳川家康に思いを馳せ、枯川の流れを地勢に逆行させ、石鉢水を見せたのではないだろうか。この庭は妙心寺壽聖院と似たところがあり、借景山を持たず、樹木はツバキ、マツ、ヒノキ、モッコク、ユズリハ、アラカシ、ヤツデ、ツツジなどの常緑樹、落葉樹は季節を感じさせる小さなカエデ1本のみ。低い築山に樹木を一列に並べ、掘り込んだ枯川部分との組み合わせで一年中、風の流れを感じさせている。井戸は地下水脈を強く意識させ、石を地面に浮かぶように置くことで、地下水脈の強いエネルギーが地面を隆起させているように見せ、雷のような巨大エネルギーの上に風が通っているふうに見せている。風強ければ雷速く、雷が激すれば風もまた烈風となる易経「42風雷益(ふうらいえき)益する道」を表現、損得は表裏一体、徳川家康は自らが損をし、多額の財政出動にて民を豊かにした。近代庭だが亀島あり、庭中心石あり、江戸庭の味わいがある庭は、徳川家康の徳行を讃え続けている。