石清水八幡宮 (京都府八幡市)「鳩峯寮の庭」「書院前庭」

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)「鳩峯寮の庭」「書院前庭」

庭歩きして気づいたが、江戸時代に全国各寺社の建屋の方向、参道の向きが調整され、大半の寺社が源氏の聖地を遥拝するように調整された。遥拝したり遥拝されたりして寺社同士で関係付けがされた。

さて多数の寺社から遥拝される石清水八幡宮が遥拝している先はどこだろうか。

石清水八幡宮は海抜143mの男山にあり、徒歩での参拝はちょっとした山登りとなる。参道などの向きから遥拝先をグーグル地図でチェックしてみた。

参拝者が平地及び登りの参道を聖地に向かって歩くことは頭を下げながらのことなので聖地を遥拝しながら参拝方向に進んでいることになる。下りの参道を聖地に向かって歩くことは頭を上げながらのことなので聖地を敬う姿勢で参拝方向に進んでいることになる。

「一の鳥居」から「頓宮殿」までの入口参道を南に伸ばすと神武天皇陵に至った。「一の鳥居」を潜り「頓宮殿」に向いて歩くことは神武天皇陵に向かって遥拝しながら歩くことにつながっている。右側には円弧状の池があり中央に島がある。半島状に突き出でた築山と島は石橋で結ばれている。島にはサツキの丸刈り、ツバキ、サクラが見える。別の一つ小さい島は石橋の架からない独立島でサルスベリ或いはシャラが見える。池は浅瀬でハス、アサザが植えられている。池の周りにはサツキ、ツツジ、ツバキ、藤棚、サクラがあり花が参拝者を向けえるようになっている。マツ、クロガネモチ、アラカシ、スギ(ヒノキ)、広葉樹が植えられていた。佛教寺院の心の池とは違い神が宿る池といった雰囲気だ。神の気と仏の心を一緒に拝む神仏習合は合理的なのかも知れない。

「頓宮殿」の門、及び「頓宮殿」建屋の北と南の縁(ライン)を東に伸ばすと熱田神宮に至った。

「頓宮殿」を出てすぐ「二の鳥居」に向かう50mほどの参道直線部分を南に伸ばすと神功皇后陵に至った。参道のこの部分を歩くことは神功皇后陵に向かって遥拝しながら歩くことにつながっている。

「七曲がり」を通過すると「表参道」は一直線の参道となる。参道を南に伸ばすと応神天皇陵に到達する。参道のこの部分を歩くことは応神天皇陵に向かって遥拝しながら歩くことにつながっている。

一直線の「表参道」部分の先は折れ曲がり、直線階段となっている。この階段を西に向けて伸ばすと高千穂神社に到達する。この階段を登ることは高千穂神社に向かって遥拝しながら登ることにつながっている。この階段を登り切ると右手に「三の鳥居」がある。

「三の鳥居」から「南総門」を潜り「御本殿楼門」に至る参道両側には大木、石灯籠が並ぶ。このゴージャスな参道を南に伸ばせば天武持統天皇陵(野口王墓古墳)にピッタリと至る。この直線参道を歩くことは天武持統天皇陵(野口王墓古墳)を背にし、南総門及び御本殿に向かって歩くことにつながっている。参拝を終えて南に向かって歩くことは天武持統天皇陵(野口王墓古墳)に向かい敬いながら参拝方向に歩くことになる。

ゴージャスな参道の向きと「御本殿楼門」の向きをずらせたのは天武持統天皇陵(野口王墓古墳)と本殿祭神が向き合わないように配慮したからだろう。参道両脇の「供御所」「酒殿」「社務所」「御羽車舎」「御鳳輦舎」「神馬舎」及び「南総門の左側建屋」の東と西の縁(ライン)も参道と同じく天武持統天皇陵(野口王墓古墳)にピッタリと合っている。これら建屋は西に宗像大社(むなかたたいしゃ)を遥拝している。宗像大社と石清水八幡宮を結んだ線を東に伸ばすと富士山山頂から北に1㎞強の所に到達したので、宗像大社から石清水八幡宮を遥拝すると背後に富士山がそびえているイメージとなる。

「御本殿」の東と西の縁(ライン)を北に伸ばすと常照皇寺にピッタリと合った。「御本殿」の背後に常照皇寺がピッタリと控えている。

「御本殿」の北と西の縁(ライン)を東に伸ばすと久能山東照宮に至った。西に伸ばすと(対馬)海神神社に至った。久能山東照宮と海神神社とを結んだ線上にピッタリ「御本殿」がある訳ではないが、「御本殿」は確実に両方に向いている。「御本殿」東の入口は久能山東照宮に向かって開かれ、「御本殿」西の入口は海神神社に向かって開かれている。

「お札お守り授与所」は南に熊野本宮大社を、東に(鎌倉市)鶴岡八幡宮、西に(福岡市)筥崎宮(はこざきぐう)を遥拝している。

「南総門」の左側「神楽殿」は西に(福岡県)宗像大社を遥拝している。

石清水八幡宮と(韓国)桐華寺とを線で結ぶと、その線は出雲大社の北側約1㎞を通過した。スサノオに縁の深い聖地、出雲大社と桐華寺とが略同じ方角にある。

石清水八幡宮と日光東照宮を線で結ぶと、その線は源氏の聖地諏訪湖を通過した。

楠峯館(体育館)の北と南の縁(東西方向の縁)を西に延長すると沖ノ島の宗像大社沖津宮にピッタリと到達した。

京都の裏鬼門(南西)を守護する石清水八幡宮、鬼門(北東)を守護する比叡山延暦寺。両者を直線で結ぶと線は淀城をかすめ、東福寺善慧院方丈(明暗寺)と清水寺本堂(清水の舞台)を通過した。

表参道「三の鳥居」の手前に南の方へ下りる道があり、その先に谷に沿って180mほど真っ直ぐに下る直線道がある。その道を東南方向に伸ばすと(奈良)浄瑠璃寺に到達した。浄瑠璃寺の参道は多賀大社の方角にピッタリと合っているので、浄瑠璃寺を介して多賀大社を間接遥拝していることになる。

「伊勢神宮遥拝所」は裏参道から東方向に少し飛び出している。飛び出した所の北側の縁(ライン)は伊勢神宮内宮に、南側の縁(ライン)は伊賀上野城へ到達した。

「裏参道」に比較的長い直線階段がありその先には比叡山延暦寺にピッタリと向いている。

参道に「男山48坊」と称された宿坊が建ちならんでいた江戸時代、各宿坊が遥拝していた先までは判らないので、かつての石清水八幡宮が遥拝していたすべての先を知ることはできなくなっているが、現在残された上記遥拝先は「神武天皇陵」「熱田神宮」「神功皇后陵」「応神天皇陵」「高千穂神社」「天武持統天皇陵(野口王墓古墳)」「宗像大社」「常照皇寺」「久能山東照宮」「海神神社」「熊野本宮大社」「鶴岡八幡宮」「筥崎宮」「宗像大社沖津宮」「浄瑠璃寺」「伊勢神宮内宮」「伊賀上野城」「比叡山延暦寺」。

これら遥拝先の内、本殿西門で神を迎える「海神神社(神功皇后の三韓征伐成功の記念聖地)」と本殿東門で神(徳川家康)を迎える「久能山東照宮」が一番尊重されている。次いで御本殿楼門前の参道の先の「天武持統天皇陵」が尊重されている。石清水八幡宮の祭神(3神の)2神が眠る「神功皇后陵」「応神天皇陵」、(3神の)1神を祀る「宗像大社」「宗像大社沖津宮」は遥拝して当然の聖地。「鶴岡八幡宮」「筥崎宮」は石清水八幡宮と同じ八幡宮で、石清水八幡宮を含め三大八幡宮と称されていたので遥拝して当然の聖地。

石清水八幡宮はアマテラス、スサノオらを御祭神とする「熱田神宮」を遥拝しているが親のイザナギの聖地を直接遥拝していない。浄瑠璃寺を通しイザナギ、イザナミを御祭神とする多賀大社を間接遥拝しているのはイザナミが義母だからだろう。

石清水八幡宮に伊勢神宮の遥拝場所があるのに出雲大社の遥拝場所が無い。それは当宮主祭神にスサノオとアマテラスの子、宗像三女神がおられるためだろう。出雲大社の主祭神オオクニヌシ(大国主)はスサノオがアマテラス以外の女性に産ませた男系子孫なので、アマテラスに遠慮し出雲大社の遥拝所を設けなかったのか或いは伊勢神宮を中心とする政治勢力と出雲大社を中心とする政治勢力のし烈な戦いの名残なのだろう。遥拝先は常識的に設定した印象を受けた。

1966年(昭和41年)重森三玲が築庭した昭和の庭「鳩峯寮の庭」「書院前庭」を鑑賞した。

「三ノ鳥居」を潜ってすぐ参道両脇に「鳩峯寮の庭」がある。第二室戸台風で倒壊した三ノ鳥居の石材を用いて築庭されている。南総門に向かって右側、西日が当たる参道東側に丸石材を立てた陽の庭がある。陽の庭には天に剣を立てたような台スギ数本が配され常緑のキンモクセイ、ツバキ、落葉するカエデ、ハギが添えてあった。参道を挟んだ向かい側(西側)に角石材を寝かせ或いは立てた陰の庭がある。陰の庭にはサツキ、イヌマキ、アラカシなどが添えてあった。

陰陽一対の「鳩峯寮の庭」は共に祭壇のような雰囲気に仕上げられていた。戦場描写を作品に刷り込むことが好きな重森三玲だがここでは素直に石清水八幡宮の神に仕える爽やかさに合わせ一対の陰陽庭園を参道に添えられていた。

気を付けなければ通り過ぎてしまうような「書院前庭」は参道右側にあった。

普段は門が閉められている。門と書院との間の四角い白砂面上にいくつかの石と石灯籠1本を置いただけの簡素で小さな庭。天から降り注ぐ太陽光が梢の間をすり抜け白砂上でダンスを踊っていた。塀に設けられた風抜き板の隙間から庭を鑑賞していると巫女さんが来て門を開けてくださった。

このような単純構造の庭は一般的に借景庭園なので、書院内からは門や塀の上に見える常緑樹の大木や空の変化も楽しめるはずだ。庭の中に樹木は無い。天から降り注ぐ太陽光や月光を楽しむ石庭だ。

白砂上の中央近くに小さな石が一個ポツンと置かれている。その小さな石の周りには幾重もの丸模様が画かれている。まるで天から小さな石が降り落ちてきて波が立ったように見える。庭のあちこちに置かれた石や石組みはこの小さな石を見つめるような配置となっている。

鑑賞を続けていて、この小さな石はおのころ島(沼島)だと気付いた。庭は「国生み神話」を表現したものだ。

国生み神話の中で「おのころ島」に次いで最初に生まれた8島は「淡路島」「四国」「隠岐島」「九州」「壱岐島」「対馬」「佐渡島」「本州」。四国と九州は胴体が1つで、顔が4つあると説明されている。次に生まれた6島は「(現在は本州につながっている)児島半島」、「小豆島」「(本州すぐそばの)周防大島」、「(大分県)姫島」、「五島列島」「男女群島」となっている。

余談になるが、国生み神話を現代風に読み替えると「イザナギ、イザナミを中心とする政治勢力が日本中の政治をかき回し日本中を混乱状態に落とし込み、先ずは沼島(おのころ島)を占領し徳島と近畿との海上交通を遮断、近畿と四国の諸国を困らせ、次いで「淡路島」を占領し四国全土と近畿との海上交通を完全遮断、これにて「四国」の4国を占領。順次「隠岐島」「九州(4国)」「壱岐島」「対馬」「佐渡島」を占領、大陸から「本州」への軍事物資、武器、情報ルートを完全遮断、「本州」占領を行った。これで日本統一事業が完成したと思っていたが、「児島半島」「小豆島」「周防大島」「姫島」「五島列島」「男女群島」には未だ新政権に従わない地方豪族の海軍拠点或いは海賊拠点があった。これらを逐次排除し海上通路を完全掌握し完全日本統一を果たした」となる。

「おのころ島(沼島)」に見立てた中心石を含めこの庭には14個の石と1本の春日灯籠、計15個のポイントがある。国生み神話の中で「おのころ島」、次いで最初に生まれたのが8島、次に生まれたのが6島、計15島。庭におかれたポイント合計15個と国生み神話の島の数15島とは数が合っている。

「おのころ島」に見立てた石の奥には3つの石を組み合わせた三尊石のような石組みがある。中央の背の高い石は富士山に見立て「本州」を表現し、その左右の石は「児島半島」と「周防大島」を見立てている。

春日灯籠は日本統一の光を放った伊弉諾神宮のある「淡路島」を見立てている。

門から庭の中を覗き込むと、門の両側、左右にそれぞれ複雑な顔をした少し大きめの石が置かれている。門を入って左側の少し大きな石のそばには小さな石が寄り添っているので左側は「九州」と「姫島」を見立てたものだろう。右側の石は「四国」を見立てたものだろう。

それ以外の「隠岐島」「壱岐島」「対馬」「佐渡島」「小豆島」「五島列島」「男女群島」はいったいどの石にて見立てているのか私には判読できなかった。

さて、この庭の春日灯籠の丸い孔は門の中央に光を向けるよう置かれている。明らかに光線を何処かに照射しようとしている。イザナミ墓があるという比婆山とこの灯籠とを線で結ぶと、その線は当庭の門中央を通過した。春日灯籠が放つ光を比婆山の山頂に届かせることを想定している。

本州に見立てた石組みはこの庭の門中央に顔を向けている。本州に見立てた石組みと(淡路島)伊弉諾(イザナギ)神宮とを線で結ぶと、その線は当庭の門の中央を通過した。

この二つの線は当庭の門中央でクロスしている。

この庭は比婆山(イザナミ墓)と伊弉諾神宮(重森三玲が思うイザナギ墓)を意識し、イザナギとイザナミの霊を門中央から一緒に庭へ迎え入れるために築庭したと推測した。封建時代の伝統技法を発展させ庭に遥拝霊を取り込む形とすれば清清しい庭になる。そのことを重森三玲はこの庭で実証した。清清しい石清水八幡宮との相乗効果で、見れば見るほどに光り輝く清清しい世界に引き込まれる。

前述したとおり石清水八幡宮にはイザナギ、イザナミを直接遥拝する参道や建屋がない。重森三玲はその石清水八幡宮にイザナギ、イザナミの霊を招く革命的な庭を作った。すさまじい夫婦喧嘩をして別れた二人を招き入れ一緒にさせている。この庭がキラキラと輝いているのは当地にこのような庭を作った意気込みと日本創造の二人を仲直りさせようとする意気込みによるものかも知れない。

余談になるがこの作品で重森三玲は伊弉諾神宮にあるイザナギ墓は本人のものだとする表現をしているが、これまでの私の近畿地方の寺社歩きで、淡路島の伊弉諾神宮を遥拝する庭を見たのは金剛寺(大阪府河内長野市)、龍泉寺(大阪府河内長野市)だけで近畿の他の寺社で伊弉諾神宮を遥拝する庭を未だ見かけていない。近畿の多数の寺社は(淡路島)伊弉諾神宮を無視しているようにさえ感じていた。イザナミが先に黄泉国(よみのくに)に行き、イザナギは追いかけ黄泉国に行きイザナミと激烈な夫婦喧嘩して戻ってきているので一度死んだということだと思う。普通に考えれば激烈な夫婦喧嘩以降のイザナギは別人(影武者)となる。激烈な夫婦喧嘩したので一緒に埋葬されていない説明はつくが、スサノオ、アマテラスの母が一緒に埋葬されていないのが不思議だ。伊弉諾神宮にあるイザナギ墓は本人のものではなく影武者のものではないかと私は疑っている。