御堂筋の裸婦像 (2)

私が勤めていた貿易会社は御堂筋沿いだった。同僚が、会社近くにあるのが太った踊り子像でなく、スタイルの良いレイ像だったので良かったと笑わせてくれた。何気なく超一流の日本と欧州の作品を見比べていた。御堂筋東側、地下鉄本町駅入口、道東の四季‐春像は御堂筋を歩く人々を見つめ、自らが歩くべき道を探している。女性は見定めた男性と燃え上がるような恋に陥ると、自らを育ててくれた親や多くの人と涙を流し綺麗に離別、愛した男性に寄り添い、生涯にわたり従う。新たな人生を歩むためにそれまで得た多くのものを捨て去り、極めて近い人々と離別する。しかし新生活にて、より多くのものを得、より多くの人と結び付く。その究極が出産、優秀な子供を得、育てる女性本能は男性以上に大胆で一途だ。美しく燃え上がる恋が正しければ大きな幸せを掴むことができ、世間から認められない恋ならば大やけどをする。この少女像は清楚なので、良い恋を掴むことだろう。御堂筋の銅像たちの一番北側、肥後橋駅付近、御堂筋西側のダンサー像は何かを見つめている。腕を組み、胸を押し上げ、両足をしっかりと合わせている。恋人の取り合い中なのか、闘争心をみなぎらせている。恋敵に食らいつき、三角関係を明らかにし、自らの恋の障害となっている恋敵を排除しようとするしぐさだ。これから起きる壮烈な恋争いの結果が恐ろしい。上述の春像とダンサー像は何かをみつめる姿は同じでもその行動は大きく異なる。世間ずれした、世渡りがうまくなった者が陥る悲劇を予感させる。ブレンタのヴィーナス像は思いつめたように目線を地上に向けている。男を追いかける姿に不倫の匂いが漂っている。他の女性から男性を略奪してでも恋を成就させたい性が全身にみなぎっている。陽光(ひかり)の中で座る少女像には、女として生まれた運命を素直に受け入れ、古典的な女の生き方を受け入れた爽やかさがある。出すぎることなく、引っ込みすぎることなく、そつなく適時に最適な行動を自然体で行う。陽光は天から降り注ぐ、天は男、地は女、地は天から降り注がれた太陽光、月光、風、雨、雷を受け止め万物を生育する。この少女像のような女性は祝福された結婚をし、団らん家族を作り、多くの財産を作ることだろう。自らの才智力量を適時、最適に使うことで、家族や財産を離散させることなく、行動は節度あるも、節度が行き過ぎることもない。どんな難題も、もとから問題が存在しなかったように乗り越える。自慢することもない。作者が理想とする女性、或いは母親の少女時代を画いたのだろう。陽光(ひかり)の中で座る少女像の南隣、ジル像は現代の、あこがれ女性を画いている。現代女性には矛盾した二つの目標が課せられている。一つは男と同じように名誉、地位、富を求め、社会の成功者となり、社会のリーダーとして社会を変革させること。もう一つは家庭を作り、男に従う女としての幸せを掴むこと。そのような両方を成功させた女性を表現している。しかしながら、企業・政府などの組織は日々の変化に合わせ刻々と変化を続けている。各個人の理想を実現させるような場ではなく、その組織に課せられた宿命をこなすために存在する。対し家庭は愛情を育む場である。ジル像のように同時に両方を成功させた女性はごく一握りだが、その後ろ姿には寂しさと緊張感が漂っている。無理ある生き方をしている。姉妹像は、姉の恋を妹が悦び見守っている姿を画いている。妹は姉の恋が本物なのか、適正なのか、過ぎることがないのか、不十分なところがないのか、表面的な愛だけで嘘はないのか、色情問題に発展しないのかを冷徹に見つめ、実利につながる恋ならば応援すべく身構えている。流れに乗った姉の恋は一気に成就することだろう。姉妹像の南隣、みちのく像は上述した恋の結末を見せるような感じだ。愛した男性に従い懐妊。そして出産、子育て、自らの体を犠牲にし、伴侶、子供、孫のために尽くし続ける女性の姿を見せている。東洋女性の典型的な生きざまを見せる。オーギュスト・ルノワール作、ヴェールを持つヴィーナス像は肌を太陽光に晒すため、ヴェールを脱ぎ捨てようとする女性を画いている。この少女はそれまでの人生を投げうち、新しく人生を歩み出そうとしている。ルノワールは過去を捨て去ろうとしている悩み多き若年女性を選び、その女性の肌を太陽光に晒させ、開放感を与えることで女性の心に変化をもたらせ、その変化を画いていたのだろう。モデル女性の心の変化と、太陽光の変化を同期させ、肌の美しさを引き出していたのだろう。欧州人が作ったダンサー像・ブレンタのヴィーナス像・ヴェールを持つヴィーナス像は激した少女の感情を画いている。それに対し日本人作品は個人と社会のかかわりを画いている。日本人が印象派を真似ても同じものが画けなかったのは、日本人の潜在意識に自由な個人主義、感情を表に出すのを拒否するところがあるからだろう。