本物の大名庭園
大名庭園の第一目的は庭に藩主の真実の姿を映し出し、庭園内、或いは庭園に隣接する藩主の自宅を見せその生活ぶり、藩主の性格、性質を家臣・藩民に知ってもらうことにある。庭園を背景に屋敷内で藩主と家臣・藩民とが心を通わし合い、両者がそれぞれの心を受け入れ、家臣・藩民が藩主にすべてを預け、どこまでもついて行く決意をする場である。藩主が家臣・藩民の至誠を感じるまで交流する場である。家臣・藩民の至誠が奥深いほど庭が美しくなる。そして庭には幕府から藩に課せられた役割が表現されている。藩主は家臣・藩民に信頼され支持され続けるため、自然の美しさにて作られた庭園内を歩き藩民の生活に思い至るようになっている。藩主は庭の観察を通し精神鍛錬と思慮を行う。大名庭園の真の姿を今に伝える岡山城後楽園、彦根城玄宮園は実に美しい。これらこそ封建時代に作られそのままの姿で今に伝わる最高峰の庭だ。庭園には岡山藩・彦根藩の家臣・藩民の至誠が今も感じられる。岡山市民は池田家宗家を、彦根市民は井伊家宗家を尊敬する心が今も息づいているからだろう。未だ私は日本中すべての大名庭園を鑑賞した訳ではないので岡山城後楽園、彦根城玄宮園と同じく往時の姿を伝える大名庭園はあるはずだが、今回は玄宮園にて本物の大名庭園について記事を書くことにします。1678年(延宝6年)彦根藩4代・7代藩主、井伊直興(1656年~1717年)が玄宮園を作った。その翌年1679年(延宝7年)家中法度を定め家臣に対し厳しい統制を行った。その思いが込められていたようでシャープな庭となっている。琵琶湖は敦賀と京都を結ぶ水運の大動脈で、北は塩津・大浦・菅浦の港を、南は大津七浦・坂本・堅田・木浜の港で荷役していた。彦根城は南北の港と航路に睨みが効く位置にあり、且つ陸路の要所にあるので琵琶湖全体を管理するに適し、水運管理、漁業管理をし、幕府最大の兵糧米備蓄基地だった。その彦根藩の役割を表現するため、主に彦根城天守閣から見た琵琶湖の風景を庭に画いている。皮肉なことに琵琶湖を庭に画いた頃には西廻海運(にしまわりかいうん)が確立され、琵琶湖の物流量は減少を始めていた。1813年(文化10年)彦根藩13代藩主 井伊直中(1766年~1831年)が隠居屋敷として当園を再整備したので江戸後期作となる。欧米船が通商などを求めて日本来訪を始めた時期、井伊直中は家臣・藩民の心をまとめるため井伊神社を創設し、教育に力を入れた。干拓事業、倹約にて財政再建を行った。庭の池、島、瀧はメリハリが利いているので、決断したら目標到達までやり通す藩主であることを表現したかったように見える。庭の東は琵琶湖につながる入り江跡で、現在も庭の視界を妨げるものは建っておらず、岡山城後楽園と同様に空が広く、実際の面積以上に広い庭だと感じる。庭の中央に大きな池を配し、天空の変化をより大きく感じることができるようになっている。広い空を受け止める広い池にて天候の変化を庭に写す構造となっているので庭から易経思想を読み取ることができる。井伊直中が易経思想を庭に刷り込む整備を行ったのではないだろうか。庭に霧が立ち込め庭が良く見えない時は(第4山水蒙)未熟で幼稚な段階なので、学ぶことがたくさんある自省の時だと庭が迫ってくる。雨が降る前(第5水天需)よく待つ者こそ、よき成果をあげると告げる。雨が降り始めれば(第6 天水訴)雨を止めることなどできない、降りだしてから争いを挑んでも意味が無いとつぶやく。もし雨が降らず池の水位が下がれば(第7地水師)非常事態になった。藩主自ら出て直接指揮を執る時が来たと告げてくれる。雨が十分に降って苔面が綺麗になれば(第8 水地比)潤うと自然と人が集まってくる。しかし最後に益を求めてやってくる者はよからぬ企みを抱いているので気をつけろと注意喚起する。空に風が吹くと(第9 風天小畜)風を一時食い止めることができても長く止められない。潤いの雨が無いので、時を待てと告げてくれる。晴天となり青空が高く見え、池に反射した青空が深く見えたら(第10 天澤履) 天は高くして上に有り、澤は低くして下にある。虎の尾を踏むような危ない目にあっても柔らかい態度、礼を失しない態度で難関が突破できると教えてくれる。庭が落ち着いて見える日は(第11 地天泰)天の気が地に浸透している。藩主と藩民とが一体化した安泰な時が来たとささやいてくれる。冬の庭は(第12 天地否)天地が交わっていない。藩民が藩主の意向を理解していないと告げてくれる。空に太陽がギラギラと輝いている時は(第13 天火同人)志を同じくする者同士が揃った。藩主は好き嫌いに偏ることなく人事配置しろとアドバイスしてくれる。太陽が天空を照らしている時には(第14火天大有)盛隆の極みにあることを知り、まもなく衰退が始まることを知らせる。このように天候の変化を庭が十二分に受け止め、易経に照らして学習できるようになっている。異なった天候ごとに庭を鮮明に変化させて見せるよう、大きな池、起伏ある築山・島、彦根城を山のようにそびえ立っているように見せている。空の変化を受け止める庭形状にて鑑賞を通じ思慮の入口に立たせてくれる。次に、庭が借景としている彦根城天守閣といくつかの聖地との位置関係を地図で調べて見た。天守閣は伊吹山方向に向いているが、天守閣自身がピッタリと伊吹山山頂に向き、遥拝している訳ではない。天守閣と永平寺法堂とを結んだ線は小谷城、中の丸跡、本丸跡を通過するがこの方向に天守閣は向いていない。庭園内の建屋も同じで、永平寺・小谷城に向けて建てられていない。多賀大社-竹生島(宝厳寺・都久夫須麻神社)を結んだ線は彦根城本丸着見台を通過するが、この方向に沿って建てられた建屋は見当たらない。伊勢神宮内宮‐多賀大社を結ぶ線をそのまま北西に伸ばして見ると彦根城を避けるように庭東側の入り江跡、現、近江高等学校、城北小学校を通過した。彦根城はこの線を避け、入り江を埋めてまで城の拡張をしなかったと推測した。尚、この線は彦根市内の西音寺を通過し、琵琶湖をまたいだ後、和蔵山善隆寺とその北西の神明神社に到達する。航空地図で見る限り、西音寺、和蔵山善隆寺、神明神社に伊勢神宮内宮・多賀大社への遥拝ポイントは見受けられないので、彦根藩は聖なる線上にあるこれらの寺社に特に対処しなかったように見える。調べた範囲において彦根城天守閣は聖地に向けて建てられていない。逆説的に言えば、天守閣こそが近江の聖地であると家臣・藩民に示していたのではないだろうか。家臣の庭はすべて天守閣を遥拝していたと推測した。但し、天守閣から庭を見て、池の中にある沖の白石を模した石は天守閣から伊吹山山頂を遥拝するための目印石となっているので、永平寺、多賀大社への遥拝目印もあるのかも知れない。余談になるかも知れないが出雲大社‐多賀大社を結んだ線を東に伸ばすと名古屋城 本丸御殿に到達する。名古屋城本丸御殿内の白砂の坪庭は、出雲大社、多賀大社から送られてきた聖なる気を受け止め御殿内に反射する意だと思う。当、玄宮園にはどこにも白砂が敷かれていないので、聖地から送られて来た聖なる気を受け止め建屋内に転送するという思想は持ち込まれていない。当園内の一部の建屋は彦根城天守閣に向いて建っているので、純粋に天守閣を拝む庭となっている。彦根城は宍道湖(しんじこ)の傍らにある松江城と同様に湖上から見て美しく見えるように建てられている。当園はその彦根城天守閣を借景とし、天守閣を礼拝する礼拝庭園でもある。天守閣から下り、玄宮園の西口から庭園に入るとすぐに、当園に隣接する楽々園内の藁ふき屋根の御書院を眺めることができる。太陽光を背後から受けて眺めるので御書院の中まで覗ける。ふすま絵が鑑賞できるほどだ。御書院がすぐ近くにあるように感じる。藩主に呼ばれて玄宮園の西口から入った家臣や藩民は当園内に入ってすぐに井伊家の屋敷内を覗けるようになっている。藩主の館を覗くことで、藩主と家臣・藩民との一体感、藩主への理解を深めることができる。背を御書院に向け、東南側に広がる池を望むと、池の中の手前に二つの木橋が架かる多景島を模した小島が、その向こうに沖の白石を模した石が水面から頭を出しているのが見え、その背後に古墳のような形をした緑豊かな竹生島を模した大きな島が見える。右側には藁ふき屋根の臨池閣が、臨池閣の先に、沖島を模した島が見える。どれもこれも琵琶湖の美しい風景を写している。それぞれが鑑賞者に迫ってくる。武蔵野方向に太陽の光を受け池に沿って歩くとまるでビーチを散歩しているような感じがする。海のような琵琶湖がすぐ近くにあることを感じ、潮の匂いを感じるような気がする。武蔵野から池の向こう岸の臨池閣を見るとその上に彦根城天守閣がある。天守閣を取り囲むように庭園の池が配されているので、天守閣の権威が引き立つ。池があることで天守閣がより高く感じる。太陽光を十二分に反射し輝く天守閣は神々しくもある。武蔵野の背後には飛梁渓がある。飛梁渓の更に背後約21㎞には伊吹山山頂が有るので、伊吹山の聖水が飛梁渓を通って庭園内の池に流れ込んで来るイメージが付けられている。飛梁渓と池とはセットになっていて(易経60水沢節)池水は節度があってこそ池水、節度があってこそ豊かに水を貯えることができる。節度があってこそ経済的安定が保たれ豊であれると表現している。塩津港を模したと思える船着跡を越え、起伏のある道なりに琵琶湖を模した池から離れ築山の中を通り抜け、龍臥橋から沖島を模した島に渡り、次に高橋を渡って臨池閣に到る。そこで茶菓子と抹茶を頂く。畳の上に座って東北を望むと、建屋が太陽を背にしているのでクリアに庭園が鑑賞できる。池の向こう岸を歩く人々が明瞭に見える。江戸時代、鮮やかな着物姿の女性が歩く姿は絵になったと思った。臨池閣に座る藩主と、庭を歩く家臣・藩民との間で心の交流をしていたことが感じられる。藩主は東口から庭に入り鑑賞された。東口から入るとすぐに小さな田があり、稲の生長具合を確認し農民の仕事を思うようになっている。藩内を歩くように池に沿って歩き船着跡で琵琶湖へ航海に出る民、荷物の揚げ降ろしをしている民を思いやることができる。そして天守閣を拝し、風になびく木々や葉が奏でる音楽、(以前あった)瀧の音を聞き、琵琶湖の匂いを嗅ぎ、光の変化を楽しみながら、天守閣の背後に流れる雲を見て(易経44天風姤)藩主が命令を発することで藩民に伝えるべきことを伝えることを思い、命令の結果を思案するようになっている。そして七間橋を渡り臨池閣にて池、島、空を望み政治に思慮できるように庭が作られている。穏やかな日和に見える落ち着いた庭は彦根藩の安定経営を感じることができる。寺院庭園のような宗教の匂いがあまりしない清々しい美しさを前面に出した庭だ。武家庭園なので花は目立たないが、きらびやかな豪華さが有り心を豊かにしてくれる。これほど素晴らしい庭が作れた封建時代であったが、封建制度には重大な欠陥があった。それは被差別民という士農工商の民の枠外に穢れた身分を作ることでのみ社会が維持できたこと。とてつもない長い間、被差別民は将来に全く希望が持てない身分に固定されただけでなく、日々、あらゆる階層の民から穢多(エッタ)とさげすまれ呼称された。被差別民の精神的犠牲の下でのみ封建制度が成り立つ社会だった。長い封建時代に蓄積された被差別民の怒りを利用し、封建制度を破壊した明治・大正・昭和政府はみごとであるが、日本人が作り上げた美の結晶である大名庭園、天守閣を破壊して回った。被差別民は近づくことすらできなかった大名庭園、封建制の象徴である天守閣は嫌悪の対象だったのだろう。民を管理する役割を担っていた佛教界は民から嫌われていた面もあるが廃仏毀釈にて多数の文化を捨てた。古き良き謙譲精神、犠牲精神、名誉心は利用され全ての国民に軍国主義の道を歩ませ、多くの犠牲者を出してまで、中国人に恨まれるようなことをした。旧藩主・神仏聖職者に戦争協力をさせ祖先が築き上げた源氏の世を自らの手で破壊させた。結果、拝金主義、対立主義の硬いレールの上を走る世界となった。そのレールの基本は対立であり、対立を維持するための平等である。人と人とを競わせる社会を作り、その社会で皆、平等に競争できるチャンスを提供しますというシステムだ。平等に競争できる社会という名の下、学校では将来を賭けて学力成績を競いましょう。組織内ではイス取り合戦をしましょう。要は平等競争という名の下に多くの負け組を作る社会だ。学校は人を育てる所なのに卒業し就職後すぐに会社を辞める子が多いことを見ると学校組織は人を育てる気がないと読める。社会貢献すべき多くの組織は成果第一・保身主義にて非道なことを行い続けている。多くの無気力な若者を作り出して当然の社会だ。このような心にゆとりのない社会では上下の立場の者が心を通わす大名庭園のような庭を作ることは難しいと思う。庭は天候の変化を受け止め、思慮、思索のためにある。庭は空の変化を受け止めるため自然素材だけで作るべきなのに、現代庭園は庭の本来の目的を忘れてしまったようにコストダウンの為に化学変化を起こさせるセメントを多用している。空の大自然と地上の庭とがかい離したものを作り続けている。人の感性は鋭いので人造石を直ぐに見抜く。もしある会社が大名庭園のような庭を持っていたとすれば、その会社は経営者と従業員とが一体となり社会貢献し、社内に目だったポジション争いが無く、社員が伸び伸びと働いている会社だと言えるのではないだろうか。それほど大名庭園は美しい。大名庭園の真の姿を伝える岡山城後楽園、彦根城玄宮園から学ぶべきこと多いと思う。被差別社員を生み出すような会社や組織はいずれ淘汰されることは歴史が教えてくれているが、上下の立場の者を一体にしてくれる真の大名庭園こそが日本庭園の神髄だと思う。