本殿・拝殿・参道は東に(横浜)總持寺、西に(京丹波町)阿上三所神社(本庄)を遥拝し、總持寺大祖堂と阿上三所神社(本庄)を結ぶ神佛の通り道(A線)は(神奈川県最高峰で富士山、南アルプスなど見渡せる)蛭ヶ岳山頂付近-(富士吉田市)北口本宮冨士浅間神社本殿付近-(水尾神社)本殿・拝殿・参道を通過している。本殿へと参道を進み、拝殿で祈ることは總持寺、蛭ヶ岳山頂付近、北口本宮冨士浅間神社を背に、本殿と阿上三所神社(本庄)の神々に祈りを捧げることに通じている。本殿・拝殿は北に(高島市)日枝神社、南に(野洲市)兵主大社を遥拝、日枝神社本殿と兵主大社本殿を結ぶ神の通り道(B線)は(高島市)松蓋寺金刀比羅宮-(水尾神社)本殿を通過、A線・B線は(水尾神社)本殿で直角に交差している。更に(敦賀市)氣比神宮本殿と(橿原市)橿原神宮二の鳥居を結ぶ神の通り道(C線)は(水尾神社)本殿-石山寺-(奈良)東大寺勧進所八幡殿-春日大社西塔跡-旧大乗院庭園-帯解寺を通過している。氣比神宮、東大寺、興福寺、橿原神宮は広いので水尾神社は大きな神佛の通り道の中に包まれている。A線B線C線は本堂で交差しているが、それ以外の多くの神の通り道が当神社周囲を通過しており、二つの大きな庭池は多くの神の降臨池となっている。庭入口の大きな磐座が神域を感じさせる。鮮やかな緑の山に囲まれた山裾を利用し、上下二つの大きな池を設けている。山水が瀧を通し上の池に流れ落ち、その水は瀧を通り下の池に流れ落ちている。上の池では鯉を見かけないが、下の池では鯉が泳いでいた。下の池は瓢箪型、くびれたところに欄干が赤い太鼓型の橋を架けている。上の池の中之島は平たく、苔面に低く刈り込んだサツキとススキが生えている。下の池の中之島も平たく、亀島風に護岸石を組んでいた。それぞれの島に橋を架けず聖なる島としている。上の池庭は三尊石から流れ出たように見せる山水を瀧水にしている。瀧の両側には池対岸に光を反射させる石を配し、更にその両側は多数の頭が平らな神の着座石を山裾の稜線に沿わせ、これでもかと言うほどに積み重ねている。三尊石やその周りの石は大きくずんぐりした権現石となっている。瀧に向かってすぐ右側、光を反射させる平たい面石の頭は剣(つるぎ)形で天を指している。中之島は頭が平たい神の着座石で護岸され、池の中から頭を出す石も頭が平たく神の着座席となっている。亀を連想させる形をした石が瀧に向かっている。下の池庭も基本構成は上の池庭と同じ。キノコ型の石灯籠が異次元の世界にある庭を印象付ける。両池庭共に無数の頭が平たい神の着座石、平たい面を立てた石で構成され、人間の匂いを排除している。江戸庭園は中之島に橋を架け、神を意識させる石と人間臭い石を取り混ぜ、神々と人々が交流している姿を表現しているが、この庭に神と人との交流表現は無い。神を表す権現石を組んだ三尊石、神の着座を連想させる頭が平たい石、人を近づけない聖なる島、剣を連想させる立石、神を連想させる樹木で、神が集う世界のみを表現している。明治になり神道は神の世界と人の世界を分けた。人に神を崇め(あがめ)させるが、人が神に近づかないようにして来た。この庭は現代神道の姿を表現している。現代日本人は日本古来の神々が血のつながった自らの祖先であることを忘れ去っている。明治政府は廃仏毀釈にて神道から仏教の人間臭さを排除し、天皇を最高神官と位置付け、更に天皇を神と崇める一神教政策を行った。それらにて神道を歪め欧米の一神教に似た宗教にしようとした。庭は日本古来の神々が集う世界を表現している。鎮守の森を形作る山の大木、天を指すスギ、神が遊ぶ姿を連想させるマツ、神の世界に色添えるカエデ、日本庭園の定番ツツジ、サツキ、天皇陛下万歳と叫び戦った明治・昭和の戦争を思い起こすサクラ、それらはどれも美しく神々の世界を鮮やかなものに仕上げている。しかし、日本古来の神々は崇めるためだけにあるべきでなく、神々の子孫である我々と一緒にあるべきだと思う。この庭に人間臭い形をした石を加え、中之島に橋を架け、祖先の神々と共に遊んでいる姿とすればより美しくなるはずだ。明治維新以降、現代に至る政府は神と民を隔絶させ、民を神の従属者にし、お上に従順な組織人、企業戦士、軍人、納税者を育てて来た。庭に日本人の心を吹き込むには日本古来の神々と日本国土に住む人々が一緒に暮らしていることを意識させる庭とすべきだと思った。