1583年(天正13年)豊臣秀吉が紀州征伐した際、根来寺の僧侶だった文貞坊が当地に移り、中筋家初代となった。4代目が(徳川)紀州藩の庄屋となり、1750年(寛延3年)5代目が大庄屋となり明治まで務めた。農民の身分であるが刀の所持を許された。表門・主屋・長屋蔵・北蔵・内倉・茶屋など味噌部屋を除くすべての建屋が西約7㎞の和歌山城岡口門を遥拝し、北には(約119㎞先の)福知山城天守を遥拝していた。建屋が建つ方向(遥拝先)から読むと当住宅は紀州藩の軍事に関与していたと読める。当住宅は熊野古道に接し大阪の天満橋へと通じ、北に約1㎞歩けば和歌山城と松阪城(紀州藩領地)を結ぶ和歌山街道の交叉点に至れる。和歌山城に比較的近く兵員を待機させるに適した地にある。主屋を見学すると廊下に畳が敷かれ、天井に槍の収納棚があるので、藩士、足軽合わせて1個小隊(30~50名)の宿舎として使うため建屋が作られたことが読める。武器を携帯した多数のたくましい軍人を、子女らも生活する屋敷内に受け入れ寝食させ、心地よく送り出さなければならない。見学を通じ、そのような工夫がなされた住宅だと思った。庭池は商家の庭のように深く掘り込まれている。表門建屋、主屋、塀に囲まれた小さな庭なので、表座敷(客間)から庭を見ると掘り込み方が窪地というより井戸と呼ぶほど掘り込まれ、水面が相当深いところにある池だと感じる。武家に遠慮して黒い石を多用し、石橋を池に豪快に架けている。池に下りる石階段も設けられている。水面に映る十五夜の月は美しいはずだ。当地の名石、緑泥石片は表座敷から見えないように座敷の下に配されている。南国を感じさせるソテツがあり、庄屋らしいクロマツ、ナンテンがある。季節の変わり目なのでサルスベリとサザンカが同時に花を咲かせていた。水は池底の泉から湧き出しているのでは、風が水面まで届かないのではないかと感じるほどに深く掘り込まれているので、易経の観点から見ると澤(兌)というより、地面を深く掘った穴のような、水が湧きだす泉のような、水を強調したもので、坎(かん)を表現している。この池は屋敷周囲の水路につながり、水路は川につながっているので、正に流動する水を表現した池だ。今は水草が水面を覆っているが、本来は水草なく水面を強調していたはずだ。水面と天空との間に風すら介在しない「6天水訟(てんすいしょう)天水違行」を表現している。天は上に上にと上昇するもの、水は下に下へと流れていくもの。全く逆方向に進むもの同士なので、一見、交わることのない不自然な関係に見えるが、天から雨が降り水の流れが作られるように、天と水は進む向きが違うだけで自然な関係にある(上に上にと目指すサラリーマン社会の)武士と(自らの土地を守ることを第一にしている)農民との関係だ。両者は目指す向きが全く逆であるが、武士は農民のコメ生産に依存し、農民は武士が作る安全、安定した社会に依存している。お互い背を向け合って生きている者同士ではあるが、そのほうがむしろ自然である。武士と農民の間に入る大庄屋は農民代表でありながら、刀を所持する武士の末端者であり中途半端な立ち位置にある。その大庄屋として必要な心構えを庭に画いたと読んだ。つまり「武士と農民が争い、どちらかが勝つ、負けるということは愚かなことである。争えばお互いが傷つき、争うほどに傷が深くなり、利が遠ざかり、争い終わっても禍根が残る。争いが起きないように常に思慮を重ね、対策を取っておかなければならない。両者間に矛盾が発生したら、真っ先に両者の利害の折り合い点を読み取り、争いにならないようにしなければならない。」それを表現している。このことは会社における経営者と従業員にも当てはまる。経営者は会社を継続させるため時代に乗り続けることを第一に考えている。従業員は自らの能力と生活向上を第一に考えている。目指す方向が異なっている者同士ではあるが労働争議など起こし、お互いが争い、会社を弱めるようなことは愚かで本末転倒である。この庭の魅力は支配者と被支配者の間に立ち奮闘する者の心構えを画いたことにある。天と水が戦っても勝敗はつかず、ただ大波が起き、台風が起きるだけで、両者の本質に変化はない。両者が交わることもない。世の中には争うこと、交わることに無意味なこともある。むしろ争わない、交わらない方が自然な関係となることがあることを見せている。波を立たせない対策が重要だ。水草のホテイアオイが池水を覆うほどに繁殖しているが、水を強調する池なので、大きく剪定した方が良いのではないかと思った。殿と呼ばれる旗本を接待でき、紀州藩家臣・足軽を寝食させられる建屋、大庄屋の心構えを画いた庭、ここは歴史価値の高い住宅だと思った。