和歌山県公館(和歌山市和歌浦中)

和歌山県公館(わかやまけんこうかん)

和歌浦「不老橋」近くを散策していると日曜のみ公開している和歌山県公館があった。何気なく入ると超一流の大名庭園がそこに広がっていた。

門の内側にはマツ、ツツジ、サツキ、イヌマキ(ラカンマキかも知れない)、アオキを組み合わせて島のようにした、大きな盆栽のような築山があり、来訪者を迎えてくれる。そこに春日型灯籠が1本立っている。紀州東照宮の方角を意識させるためのようで、紀州東照宮創建後に置いたものだろう。築山を通り越すと芝面の広場に出る。江戸時代この芝面には大きな屋敷があったはずで、庭を取り囲むように建てられた各屋敷内から庭を鑑賞していたはずだ。

芝面広場の南側にはヒトツバ(一つ葉)のようなササかシダ植物なのかよく判らない温暖な海岸に生えているような植物が多数植えてあり、海に近い庭であることを印象付けている。芝生面の北側、庭の手前には庭を囲むようにアカマツ、クロマツがあり、マツの幹と幹の間から溶岩流浸食岩の小山を見せている。庭の背後は雲蓋院北側の山が借景となっている。雲蓋院北側の山に育つ木はカシ(樫)の木だと思うが、庭手前の良く剪定されたマツの背景に深い緑色を添えている。太陽光を背後から受けてのこれら樹木が青々として美しい。太陽を反射する芝面と青空とに挟まれた緑に深みがある。

芝面を越えマツに近づくと突然、大地を深く切り込んで作った谷が突然現れる。その谷はそれほど大きくも深くもないが、切り立つ石組みと溶岩流浸食岩の間、背の高いマツの足元にあるので深く見える。意表をついて谷が急に視界に入るようにし、谷底の水面に視線を向かわせる表現が谷をより深く見せている。護岸石が踊るように組まれていることも谷を深く見せている要因だと思う。谷の傍にウメが1本植えられていた。

谷底の水は澄んで綺麗だ。風の影響を受けない深いところに水を張っているので水の表面が鏡面状で、空をクリアに反射し、同時に水底も見せている。溶岩流浸食岩はこの庭のすぐ傍に海があることを印象付け、深く切り込んで作った谷が深山幽谷の谷でなく開放感ある谷となっている。

この庭の持つ爽やかな作風は名古屋城二の丸庭園や徳島城表御殿庭園に通じるものがあり、ふと上田宗箇が築庭したのではないかと思った。

ウバメガシがあちこちに植えられ海が近いことを感じる。谷に吸い込まれるように奥へ奥へと進んで行く。溶岩流跡の流れるような線の影響かも知れないが登り坂なのに自然と足が和館方向へと向かう。振り返ると谷が後方に見え人里離れた地に入ろうとしている雰囲気が出ている。

和館の周りには形の良いマツが2本、イヌマキ、ウバメガシ、ツツジとサツキの丸刈りを配し、豪快に枝を伸ばすマツが目を惹くようになっている。

和館の東北側にはイチョウ、アオキ、細いタケ、ヒイラギ、サツキなどが植えられている。

和館の更に奥に入ったところ、小山の東北側に茶室がある。海が近い谷を越え、海に近いが人里離れた地に入った雰囲気を出している。この茶室の特色は海の香りがすることだ。和館と茶室との間にはイヌマキ(ラカンマキかも知れない)、シラカシ、ナンテン、ヒイラギ、サツキなどが植えられていた。見落としたのかも知れないが露地に定番のツバキに気付かなかった。海が近いのでツバキが育たないのだろうか。ヤダケを小さくしたようなササとタケとの中間のような樹木も植えられていた。

茶室と溶岩流浸食岩(小山)側にはアカマツ、ウバメガシ、ヒトツバ(一つ葉)のようなササかシダ植物なのかよく判らない温暖な海岸に生えているような植物が植えられていた。小山に登れる道もついていた。

非常にバランスの良い庭で桃山時代から江戸初期の躍動感あふれる庭だ。戦国時代末期から終結の間に作られた戦争バブル期の庭でもある。この庭には少年時代から戦場を駆け巡り朝鮮出兵、大阪の陣まで従軍した上田宗箇らしい戦場に流れる爽やかな空気が流れている。山縣有朋が作らせた庭と同じ爽やかな空気が流れている。この庭の空気は戦場を駆け巡った築庭者にしか出せないものだと思う。

グーグル地図にて茶室、門、洋館、和館、周辺の建屋の向きをチェックし庭の遥拝先など探って見た。茶室の東南-西北方向の向きは西北に730mの和歌浦天満宮に合わせてあった。茶室の西南-東北方向は西側の縁が東北に約57㎞の白鳥陵古墳に、東側の縁が東北に約154㎞の多賀大社に合わせてあった。茶室は和歌浦天満宮(菅原道真)、多賀大社(イザナギ、イザナミ)、白鳥陵(日本武尊)の神々を迎え入れる向きに建てられている。入口の門は和歌浦天満宮の方向に開いている。低頭し門を潜ることで和歌浦天満宮遥拝につなげている。門の西南-東北方向の縁は多賀大社に合わせてあった。洋館、和館の西南-東北方向は多賀大社方向に向いているが、ピッタリと合ってはなかった。近年の建替時に微妙に位置替えしたのだろう。洋館の東南-西北方向は熊野那智大社に合わせてあった。庭の周囲の建屋も含めた遥拝先を書き出すと和歌浦天満宮、多賀大社、白鳥陵、熊野那智大社、生駒山、熊野本宮大社となる。かつて庭の南側にあったはずの屋敷、及び庭を取り囲む各屋敷内から遥拝ポイントを意識し源氏の聖地に思いを馳せながら鑑賞する庭だったことだろう。

建屋が和歌浦天満宮を遥拝しているのに、すぐ傍の紀州東照宮(徳川家康)を遥拝していないので、この庭は和歌浦天満宮再建後から紀州東照宮創建までの間(1606年~1621年)に造られたと推測した。上田宗箇(1563年~1650年)は徳島城表御殿庭園を造った後、紀州藩主・浅野幸長の家臣となり、和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園を築庭している。浅野氏が和歌山藩から安芸広島藩に移封されたのは1619年(元和5年)、上田宗箇が主君について和歌山を離れるまでの期間中にこの庭を作ったのだろう。ため息が出るほどに石が踊る石組みができるのは上田宗箇以外に知らないので、この庭は上田宗箇が築庭したと断定できると思う。当庭園のすぐ東隣には「和歌浦」が一望できる「奠供山(てんぐやま)」「鏡山」があり、その隣には源氏の聖地「玉津島神社」がある。当庭園の西北隣りには「天曜寺(てんようじ)」塔頭だった「雲蓋院」がある。1870年(明治3年)に廃寺とされた天曜寺は紀州東照宮の別当寺、紀州徳川家の菩提寺。ちなみに雲蓋院の建屋の方向は紀州東照宮と多賀大社にピッタリと合わせている。山門と参道は石清水八幡宮にピッタリと合わせてある。参道を歩き山門を潜ることは石清水八幡宮に参拝することにつなげている。庭がこれだけ源氏の聖地を向く建造物に囲まれ、庭が聖地を遥拝する為の庭園となっているので、紀州徳川家の休憩所として使われたことが想像つく。紀州徳川家が紀州東照宮、天曜寺、和歌浦天満宮へ参拝する際には、小船で和歌山城を出発し、和歌川を下り不老橋付近で下船し、ここで休憩していたことだろう。

明治維新以降、庭に手を加えず、庭を破壊することもなく、サクラなど遊興の木を植樹して庭を汚すこともなく、よく現代まで桃山時代~江戸初期の名園をそのまま維持されたことだと思った。思いもかけず上田宗箇が造った大名庭園を鑑賞でき、とても幸せな気持ちになれた。