百済寺 喜見院の庭園

官能的な奇観庭

百済国の首都「泗沘(扶餘)」陥落が660年なので、百済国末期に百済寺(ひゃくさいじ)が創建されている。幾度もの全焼と復興を経ているので百済国との接点を感じさせる建屋、文化財は見当たらない。本堂は1650年(慶安3年)再興、(本坊)喜見院は1940年(昭和15年)に移転してきた。建屋は百済国首都址「扶餘 扶蘇山城」に向いていない、庭園を囲む喜見院の建屋群、北側の建屋は出雲大社本殿を遥拝する方向に建てられ、西と南側の建屋は久能山東照宮本殿を遥拝する方向に建てられている。よって西の建屋内から廊下に沿って見た東の庭は久能山東照宮遥拝庭となる。当寺本堂の略真北11km先に多賀大社本殿がある。東西方向には熱田神宮と貴船神社がある。当寺北緯は35度7分36.8秒、熱田神宮北緯は35度7分38.59秒、貴船神社北緯は35度7分18.2秒、熱田神宮は約1900年前に創建されたと言われ境内は南北方向に長い。約1400年前に創建された当寺より歴史があるはずの貴船神社境内も南北方向に細長い。よって春分、秋分には熱田神宮方向から昇った太陽が貴船神社方向に沈む。この時期、庭「遠望台」から夕陽を拝むことは貴船神社を遥拝することに通じる。当寺は貴船神社と熱田神宮を往来する神々の通り道、多賀大社の真南にある尊い場所に創建されたことが読める。「遠望台」からみた「きぬがさ山」山頂(標高432.9m)にある観音山城址のすぐ北側、そしてその先に見える比良山地、皆子山(標高971m)と蓬莱山(標高1174m)の山頂の間が百済国を偲べる「扶餘 扶蘇山城」の遥拝目印となっている。当寺の北5km、金剛輪寺の地は渡来系氏族の秦氏と何らかの関係があったと見られている。聖徳太子は実在しないと言われているので、当寺創建頃に活躍していた秦河勝が当寺や観音正寺を創建したのだろう。1498年(明応7年)自然発火の火災で本堂付近を焼失し古記録類など寺歴を失ってしまう。1503年(文亀3年)兵火で全焼しほとんどのものを焼失する。1573年(天正元年)織田信長の焼き討ちで再び全焼する。再建者は天海大僧正。彦根藩領内なので、たくさんの美しい庭があったはずだが弁財天を取り囲む池以外、江戸時代の庭は見かけない。明治政府が行った神仏分離、廃仏毀釈がいかに徹底していたか伺い知ることができる。庭は勝元鈍穴の作風を受け継ぐ「花文造園」により、もとあった庭を改造し、広さを三倍に広げて改作された。爽やかで官能的な庭だ。上面が平たい大きな石を池の周りに並べ置き、池を取り囲むように飛び石を配し、池の周りを周遊しながら池を楽しめるようになっている。エメラルドグリーン色の瀧壺に勢いよく渓流水が落下している。渓流と瀧の水音は建屋に囲まれた庭に響き渡り、雑念を流し去ってくれる。緑豊かな庭で、多くのマツが豊かな気持ちにさせてくれ、多くのサツキの丸刈りが遊歩道を伝って庭の上へ上へと登るように誘ってくれる。瀧口周囲のカエデが春は若葉、秋は紅葉にてダイナミックに色合いが変化する。満開の梅の木に猿が遊んでいた。久能山東照宮本殿遥拝庭だが建屋から遥拝目印の石灯籠を見かけない。庭のあちこちに小さな五輪塔の墓標がさりげなく置かれていて、戦国時代に多数の死者を出した土地であることを連想させる。池は三方が建屋、一方が山腹を利用した階段状の築山、波が立ちにくくなっている。滝壺と池との間に細長い飛び石を置き、通路とすることで、滝壺で発生した波が池に届かないようにしている。池の排水も湯船から水がこぼれ出すようにすることで、水面を鏡面としている。大風が吹くか鯉が水面から飛び跳ねない限り鏡面状態が保たれる。鏡面状の水面を持つ池は自然界で稀にしか目にすることがない。多数の平たい飛び石を池の周囲に巡らせている。平面の長細い石も飛び石としている。いくつかの飛び石は護岸石として利用されている。それら多数の飛び石の平らな上面は略同一の高さに統一され、池周囲に配されているので、飛び石を歩くと池の上を歩いているようであり、水面に神経を集中させるようになっている。奇観が非日常的な感覚を誘う。石の先端を天に向ける三角状の石は瀧周辺で見られるが、築山中に設けた階段は一段一段と平面が目立つように配置されている。石々は平らな上面を段ごとに統一的な高さにスッキリまとめている。平らな上面を同一高さとした石々は鏡面水面、平らな池底面、四角な池形状を強調している。「遠望台」から庭を見下ろすと池庭はたくさんの石眼を持った端渓硯のように見える。緑色の池底面は鏡面水面を美しく見せ、泳ぐ鯉を色鮮やかな近代日本画の池に泳いでいるように見せる。まるで生きた近代日本画だ。護岸石、瀧石組み、回遊道の石々をコンクリート固定しているので祈りの庭、遥拝の庭ではないが、シャープな新たな美を創り出すことに成功している。維持コストが高いマツが多数本育て、ヒノキ・スギの大木で庭を取り囲み、多数のカエデを植樹している。サツキやツバキも見え、苔面が美しい贅沢な庭である。庭鑑賞した後、本堂へと向かう。山門の仁王(阿吽像)が、寒い中、上半身を晒し、一体は大声で怒り、一体は怒りを呑み込んでいた。一対で男の生き方を示していた。階段を登り切り暖かい本堂に入ると、一対の女性像(如意輪観音半跏思惟像と聖観音座像)が女性の生き方を示していた。如意輪観音半跏思惟像は目をパッチリと開け信念をもって生きる姿を、聖観音座像は目を閉じ、左手でハスの蕾花を持ち右手で蕾を触り慈しむ姿を表現していた。先ほど見た庭はこの一対の女性像を表現したものだと思った。