京都御所

(古墳群のある)双ケ岡と(吉田神社の神苑であった)吉田山の間に京都御所がある。(双ケ岡)一の丘山頂と(吉田山)吉田神社本宮を結ぶ神の通り道は妙心寺境内-(京都御所)御三間を通過する。鴨川は賀茂大橋から四条通りまで直線で、川筋中央線を南に伸ばすと熊野本宮大社大斎原に至る。鴨川に略平行に地割りされた京都御所の西側と東側の築地塀、京都御苑左右の南北方向に伸びる(西は油小路通りから東は東路通りあたりまでの)通りはおおむね南の熊野本宮大社大斎原を指さしている(ただし一部、北の若狭彦神社上社を指さすいくつかの通り、鴨川左岸がある)。京都御所内の紫宸殿を含むすべての建屋は熊野本宮大社大斎原を仰いでいる。このように京都御所全体で南に熊野本宮大社大斎原を、西に双ケ岡を、東に吉田山を遥拝している。京都御所全体は北に相国寺以外の聖地を持たないが、北には北極星を遥拝していると推測した。京都御所紫宸殿中心付近から南の白砂庭を見て、中央に熊野本宮大社が、左端に伊勢神宮外宮内宮が、右端に伊弉諾神宮が位置するよう紫宸殿と白砂庭が作られている。左の伊勢神宮内宮正殿に向けて線を引くと(京都山科)伊勢神宮遥拝所-松阪城本居宣長ノ宮境内付近を通過した。この左右範囲内には日本神話の中心的な聖地(神社、陵墓、神体山、古代都城跡)が揃っているので、天空と通じる意味を持たせた広い白砂庭を前に紫宸殿で大嘗祭(だいじょうさい)を行うことは天皇が皇位継承したことをアマテラス、日本神話の神々、歴代天皇に報告することに通じるようになっている。紫宸殿は封禅の儀式が行われた中国泰山と似た性質を持っていると思う。(近畿の五芒星の聖地)伊吹山山頂の日本武尊像と伊弉諾神宮を結んだA線は(京都御所)皇后宮常御殿を通過する。(近畿の五芒星の聖地)伊勢神宮内宮御正殿と(福知山市)皇大神社(元伊勢内宮)を結んだB線は京都御所を通過せず、京都御所の北にある(上賀茂神社摂社)太田神社本殿の東北約30m地点を通過する。A線とB線は京都御所で交わらず、京都御所の東北3㎞地点の一乗寺公園で交叉している。北の若狭彦神社上社と南の熊野本宮大社大斎原を結んだC線も京都御所を通らず、紫宸殿の東約1.35kmを通過する。しかし京都御苑周囲の南北方向に伸びる通りが若狭彦神社上社と南の熊野本宮大社大斎原のいずれかを指さしていること、京都御所全体で熊野本宮大社大斎原を遥拝していること、紫宸殿と若狭彦神社上社を結んだD線はA線が通過する皇后宮常御殿で交叉していること、近畿の五芒星を結ぶ線の交差点に寺社が全く設けられていないことから見て、京都御所でABC線は交叉しないが、ABC線の交叉点は京都御所という位置付けにしたと思った。B線からわずか30m離れただけの太田神社は(玉置神社)玉置社を遥拝しているが、太田神社と玉置社を結ぶと相国寺境内西側-京都御所西側の築地塀の外側傍-渉成園(枳殻邸)庭園-唐招提寺境内西側-薬師寺西塔を通過する。太田神社と熊野那智大社本殿を結ぶと相国寺境内-(京都御所)紫宸殿-(奈良)塩塚古墳-猫塚古墳-平城京朱雀門を通過する。太田神社と(藤原京跡)鴨公神社を結ぶと相国寺境内-(京都御所)清涼殿-平城京-耳成山頂上付近を通過する。太田神社から京都御苑を見た場合、その背後に奈良の主要聖地がすっぽりと入ることからして、太田神社は京都御苑全体を神の通り道の下にするため、京都御所移転時に創設された神社ではないかと思った。(京都御所)紫宸殿の中心から日光東照宮中心に線を引くと(千日回峰行の拠点)無動寺境内-(千日回峰行の祖)相応和尚墓所-(日吉大社)白山宮・東本宮拝殿-(近江八幡市津田山)天之御中主神社奥宮の南約60m-(彦根市荒神山)延寿寺-(関ケ原) 脇坂安治陣跡を通過する。(京都御所)紫宸殿の中心から久能山東照宮中心に線を引くと(吉田神社)斎場所大元宮境内-法然院庫裏-秋葉山本宮秋葉神社上社の約230m北を通過する。(京都御所)紫宸殿の中心から厳島神社御本殿中心に線を引くと(京都)木嶋神社境内-(この線に沿う)赤穂城の内堀-(岡山)曹源寺を通過する。(京都御所)紫宸殿の中心から大宰府天満宮本殿中心に線を引くと(倉敷市)由加神社本宮の北75m-(福岡)沖出古墳を通過する。(対馬)海神神社と吉田神社本宮を結んだ線は亀山城-双ケ岡-(京都御所)紫宸殿を通過する。(沖ノ島)宗像大社沖津宮と(大津市)宇佐山城を結んだ線は(京都)法金剛院-(京都御所)紫宸殿-吉田山を通過する。(福岡)宗像大社辺津宮と(東近江市野口町、船岡山)阿賀神社を結んだ線は(京都)木嶋神社境内-(京都御所)紫宸殿を通過する。(双ケ岡)一の丘山頂と(鎌倉)鶴岡八幡宮上宮を結んだ線は法金剛院境内-(京都御所)紫宸殿-吉田山-(大津)宇佐八幡宮境内-近江神宮本殿の北約15m-(近江富士)御上神社奥宮の南約40m-熱田神宮本殿の北約75mを通過する。上述したが太田神社と熊野那智大社本殿を結ぶと(京都御所)紫宸殿を通過する。(京都上御霊神社境内)神明神社と熊野本宮大社大斎原を結ぶと(相国寺)方丈・法堂-(京都御所)紫宸殿-(渉成園)大谷家邸宅(熊野本宮大社大斎原を遥拝している邸宅)-(奈良)島の山古墳-皇極天皇越智崗上陵を通過する。この線の両側には多くの神社が点在する。上賀茂神社本殿と春日大社本殿を結んだ線は(京都御所)紫宸殿-東福寺方丈-伏見稲荷大社境内を通過する。(インド)ブッダガヤの大菩薩寺と(かつての吉田神社の信仰の中心)斎場所大元宮を結んだ線は双ケ岡-妙心寺境内-京都御所紫宸殿を通過する。以上のように(京都御所)紫宸殿は多くの聖地を貫く遥拝線の起点であり、多くの日本の神々が往来する通過地点であり交叉点である。このことから紫宸殿は日本神話の神々の中心に位置していると言えるのではないだろうか。上記以外の神の通り道として(沖ノ島)宗像大社沖津宮と(神奈川)寒川神社を結んだ線は京都御所建礼門を通過する。(大島)宗像大社中津宮と(東京)神田明神本殿を結んだ線は岡山後楽園-京都御所清涼殿の北側の建屋を通過する。(鹿児島)霧島神宮本殿と(比叡山)三重塔を結んだ線は二条城天守台-京都御所建春門-(詩仙堂の隣)皇大神宮社を通過する。ここまでやるかと思った京都御所の門を通過する神の通り道、高千穂神社本殿と(滋賀)日吉大社宇佐宮拝殿の北部分を結んだ線は(京都御所)建春門-東山の石川丈山墓-(比叡山)明王堂を通過する。高千穂神社本殿と詩仙堂丈山寺を結んだ線は(京都御所)朔平門を通過する。石川丈山が(京都御所北門)朔平門、(京都御所東南門)建春門を出入りする人々を監視し続けているという意味に取れる。石川丈山墓、詩仙堂はこの遥拝線上(神の通り道下)に建立したことが読み取れる。高千穂神社本殿と(比叡山)相応和尚墓所を結ぶと(京都御所南門)建礼門を通過する。相応和尚が建礼門を守っているという意味に取れる。高千穂神社本殿と(関ケ原の戦いで石田三成を捕捉した)田中吉政の陣跡を結ぶと(京都御所西南門)宜秋門を通過した。高千穂神社本殿と(滋賀)八王子山城(志賀の陣、蜂が峰砦)跡付近を線で結ぶと(京都御所西門)清所門-(志賀の陣で浅井・朝倉方が修築拡張したと伝わる)一条寺山城跡付近を通過した。高千穂神社本殿と(明智光秀一族の墓がある)西教寺の弁天堂を線で結ぶと(京都御所西北門)皇后門-圓光寺境内の東照宮近くを通過した。京都御所西側の門は戦国時代終結のための戦いで犠牲となった方々を連想させる神の通り道となっている。偶然ではありえない多くの神の通り道、遥拝線が京都御所に集中していること、これまで見て来たように城郭、大型寺社などが聖地を意識した方角に建てられていることから、徳川幕府は北極星などで緯度経度を正確に割り出す高度な測量技術を持ち、東アジア各聖地の正確な緯度経度を把握し、全国の大型寺社の位置決めを統一的に行っていたことが読み取れる。京都御所を神が住み、神が守る地とするため門の位置までも気遣っている。これほどまでに神の通り道、遥拝線、方角にこだわった日本民族が明治維新と共に遥拝をあまり重視しなくなった。幸いなことに伝統家屋や庭をそのままの姿で守る神主、僧侶が祈りを続け、伝統を守り抜いているので日本の神仏は生き続け、伝統文化の継承、歴史保存がされている。しかしながら御内庭、御池庭は江戸時代の庭をベースにしながらも、借景を消し去り近代庭園へと改築されている。かつて借景庭園だったことは水際に黒い玉石を敷き詰めていることから判読できる。水際の黒玉石による渚風景で池を深く見せ、それほど高くない東山を高く見せようとしていた。現在の庭は御所が須弥山であることを印象付けるために、東山を隠し、天空の表情を反射させる白砂をあちこちに敷き、庭が天に近いことを印象付け、天空にある池庭といった雰囲気を持たせようとしていたように見えるが、天空の池に黒玉石の渚など存在するはずがないので、天空の池としての表現に無理がある。もともとの庭は熊野灘に面する七里御浜、王子ヶ浜などの風景を再現することで神の庭であることを印象付け、借景の東山と雲の動きを十分に見せることで風を感じさせ神々が上空で舞っているように見せる庭だったはずだ。太陽の恵みを受けた松が堂々と育ち、手入れが行き届いているので、神が住む庭の趣はあるが、借景の東山と上空の風風景を失ったために、富豪の屋敷庭園と大差がなくなったように見える。何一つとして欠けるものがない庭であるはずなのに御内庭の曲水に多数のコンクリート丸杭を打って護岸しているところが興ざめする。紫宸殿などの建屋が日本の神々を遥拝し、多くの神の通り道の下で祈りに包まれているのに対し、庭は明治、大正、昭和政府の政治力、軍事力、財力を誇示するものとなっている。京都御苑を散歩する度に、樹齢が長い立派な赤松、黒松はどこから移植したものだろうかと思ってしまう。関西圏では松並木の旧街道らしきものを見かけないので、ほとんどの旧街道(東海道、中山道、京街道、奈良街道、山陰街道、西国街道)がどこにあったのか判らないようになっている。明治政府が旧街道にあった立派な赤松、黒松を京都御苑に移植し、美しい日本の原風景(旧街道風景)を潰して回ったのではないかと思ってしまう。御内庭に入ってすぐ右側に上田宗箇クラスの作庭者でないと組めないと思えるほど見事な石組がある。庭の中心にあるべき石組だ。この石組は元からあるここにある石組なのだろうか。例えば大阪城にあった大名庭園を潰し、移した石組ではないかと思ってしまう。御内庭、御池庭は日本一高価な庭で、莫大な維持費がかかっているし、近代庭園としては日本一迫力ある美しい庭だと思うが色々と考え込ませられる。庭を易経で表現すると「22山火賁(さんかひ)文飾・美を競う」となるのではないだろうか。新華詞典で賁biは「装飾得很好看」訳すると、とても美しい装飾を得ている。或いは装飾がとても美しいとなる。紫宸殿などの建屋は日本神話の神々と交わるための豊かな祈りの表現となっているのに対し、庭は力強い、贅沢な装飾表現となっている。

質素倹約、質実剛健をベースとした内面的な精神美を求める心と、虚飾的な贅沢美を見せようとする外面的な気とが、かみ合わず、気と心のバランスがとれていないような現代日本人の姿を表現しているように見える。多くの日本の神々に見守られた庭なので、現在の姿は一時的なもので、いずれ築庭当初に近い祈りの姿に戻るのかも知れない。