明智神社

明智光秀の躍進(3)

明智神社は足利義昭の朝倉一乗谷における御所だった安養寺跡まで直線2.3㎞の地点にある。旧朝倉街道を通り抜ければ安養寺跡まで徒歩約1時間、馬の駆足ならすぐ到着できる。諜報活動を行いやすい交通便利な地にあり、1568年(永禄11年)足利義昭に入洛(じゅらく)を助けてくれるのは織田信長だと勧め、説得するに最適な地だ。当神社の説明書は称念寺説明とは少し異なり「光秀公とそのご家族は永禄5年(1562)から永禄十年(1567)までの間、東大味の土井(井)之内にお住まいになっていました」「玉(細川ガラシャ)は東大味で誕生した」と書かれていた。1564年(永禄7年)加賀一向一揆が朝倉氏を攻めた。その撃退に光秀が貢献したことで、光秀は朝倉義景に鉄砲指南役として仕官したと伝わり、1566年(永禄9年)足利幕府が行った(滋賀)高嶋田中城詰め(籠城戦)に光秀は参加し、3つの寺坊とその城下に放火しそれぞれの城を落としたことを足利義昭に報告しているので、当地を拠点に活動していたことが推測できる。時代が下り、光秀が大軍を率い丹波攻め総大将となる直前、越前での出来事が当神社の説明書に書かれている。「天正三年(1575)信長の命を受けた柴田勝家軍が越前一向一揆掃討作戦で侵攻した時は、府中(越前市)を中心に、全ての家を焼き払い、数万の人を皆殺しにしたと云われています。」「光秀公が、自分がかつて住み、家族が親しく過ごした東大味住民の安否を気遣い、この地を戦禍から逃れさせるために柴田勝家・勝定兄弟に依頼して、(東大味の住民を保護する安堵状を)出させたものと推測されます。」「本能寺の変の後、光秀への感謝を表し光秀公座像を作った。三軒の農家がその像を守り続け、明治19年、祠を建て、光秀公座像を祀るようになった。」と説明されていた。近くの西蓮寺には越前一向一揆掃討作戦当時の緊迫感が漂っていた。当地で神として祀られるほど温情あふれる行為を行った光秀だが、その温情とは裏腹に柴田勝家が総大将の越前一向一揆掃討作戦に加わっている。信長は越前に詳しい光秀に、当地の豪族達への調略など行わせるため柴田勝家の参謀として同行させたのだと思う。いわば光秀は越前一向一揆掃討作戦軍の参謀本部に所属する冷酷な作戦立案者の一人だったはずで、さかのぼれば光秀は1571年(元亀2年)比叡山焼き討ちの中心実行部隊長として忠実に働き信長に高く評価され、志賀郡5万石が与えられ坂本城の築城を行っている。大虐殺が行われた1579年(天正7年)有岡城攻略戦にも参戦している。肖像画の光秀は信長以上に冷酷な目をしている。1580年(天正8年)福知山城の築城時点で光秀は少し無理すれば3個軍団以上を擁することができる240万石を任せられた。大量虐殺に積極的に加担し、信長が満足する結果を出さなければこれほど評価されたはずもなく、信長ほど冷徹な人が光秀にどんな戦いでもできる3個軍団の軍事力を任せたことは、二人は一心同体の信頼関係にあり、心を通わせ合う関係にあったと読める。光秀の三女、玉(ガラシャ)は信長の仲介で(細川藤孝の嫡男)忠興の正室となった。四女は(信長の弟、信行の嫡男)信澄の正室となった。私生活でも二人は親密なので本能寺の変は二人の共同作戦以外の何物でもないと言える。信長と光秀、二十歳代で二人は似た経験をしている。信長は(同母の弟)信行を騙し討ちするという人間として一線を越えてはいけないことを行った。それは(弟)信行が柴田勝家らに信長を攻めさせた稲生の戦いが発端で、戦いのさなか信長は勝家軍に「勝家、意見があるなら表に出てきて差しで勝負しろ」と怒鳴ったことで、きまりが悪くなった勝家が撤兵し、戦いが終わった。そして(弟)信行が詫びを入れて来たので、信長は弟を許した。しかしながら(弟)信行は再度謀反を企てた。勝家が信長に謀反計画を密告、信長は信行を騙し討ちにした。弟に嫌悪感を持つも、自らも弟を卑怯な騙し討ちにした。弟への憎悪感と自分への罪悪感により、誰も止めることができない衝動性を持つようになったと思う。この事件以降、織田家内部がまとまった面もあるが、信長は飛躍的に戦果を上げるようになった。信長の弟や息子達は皆普通の人なのに対し、信長と(弟、信行の嫡男)信澄の二人だけが自ら率先して虐殺を行う異常な面がある。信澄はいつも深い愛情をかけてくれる尊敬する伯父(信長)が父を騙し討ちした人であり、父と伯父に対し憎悪感と、尊敬心を交叉させつつ、それを許容する自らに罪悪感を深めていたことが想像できる。その結果、誰も手がつけられない衝動性を持つ人になったのではないだろうか。光秀は明智城落城で多くの味方が戦死・自刃する中で、仲間を裏切り敵前逃亡したため心的外傷(トラウマ)を受けてしまい、冷酷な行為を平然と行う人になったのではないだろうか。信長と光秀、両名共に身内を深く愛した。両名と同じような性格の信澄が光秀の四女を娶ったことで両名はより親密になった。信長、信澄、光秀は大義名分があれば大量虐殺を躊躇なく行う怪物(モンスター)であるが、両名は英明なので日本という神の国で大量虐殺を行った者はいずれ一族もろとも抹殺されることを知っており、愛する身内を守るため、うまく表舞台から消えるため、共同で自作自演の本能寺の変を起こしたのだと思う。信長の親族は秀吉から一旦すべての領地を取り上げられることで皆の同情を受け、難を逃れた。そして徳川幕府などに雇われ普通の生活が送れるようになった。光秀の親族は明智の名を捨て、闇の中に消えることで難を逃れ、別の姓名にて普通の生活を迎えたように見える。両名が夢見た天下布武は石山本願寺(一向宗の総本山)の武装解除を終え、河内源氏の武田氏を整理した段階で確固たる道がついた。その時点で信長が考えていた天下布武(世界制覇)と光秀が考えていた天下布武(天皇・将軍を中心とした日本統治)の違いが浮かび上がった。それぞれの目的達成のために本能寺の変を起こし、別々の道を歩き始めることにしたのだろう。信長は自らの天下布武(世界制覇)を果たすため、本能寺の変にて信忠らと共に逃亡し、日本海を超え中国東北部の瀋陽付近、建州女真の地域に向かい、到着前後にヌルハチを殺害し、信忠をヌルハチに背乗りさせ、李成梁に多額の賄賂を渡しヌルハチ一族を全滅させ、信長・信忠・森成利(蘭丸)、森坊丸、森力丸・(信長弟)長利・(信忠弟)勝長・坂井越中守が愛新覚羅氏と貴族になりすまし、(信忠)ヌルハチと(信忠の子)ホンタイジに清朝樹立をさせ天下布武を実現させた。これらの行動は当時の状況下であれば不可能ではないと思う。女真族をまとめるまで時間がかかったのは信忠らが言葉を覚え、現地協力者を増やすのに時間がかかったからだと思う。秀吉が発動した文禄・慶長の役(1592年~1593年、1597年~1598年)は日本に何の利益もなく、ヌルハチに対して行った軍事協力以外の何物でもない。歴史の大きな流れを見れば徳川幕府と清朝は、お互い全く干渉しない密約をもった関係にあったとことが読み取れる。李氏朝鮮は表向き清朝の属国だが、実際は徳川幕府に朝貢する国だった。徳川幕府・清朝は朝鮮半島に軍を駐屯させず、朝鮮半島に清朝を嫌う風潮を起こすことで、日中両国間の緩衝地域とした。琉球は表向き清朝に従属したが、薩摩藩の植民地だった。台湾は一部の沿岸部を清朝が支配したが大部分の地域は清朝が関与しない現地民の自治区で、台湾で反乱が起きないようにし、日中間に軍事衝突の火種が生じないようにした。こうして東アジアは長い平和な時代を迎えた。最近の朝鮮半島情勢は、まもなくアメリカ軍が朝鮮半島から全面撤退し、日中両国は朝鮮半島に介入せず、朝鮮人自身の手で平和的な朝鮮半島統一を実現させ、朝鮮半島を日中間の緩衝地域とする流れになっている。日米の強固な軍事同盟を見ると、第一防衛線を死守するとしても、沖縄から米軍が全面撤退することを条件に、中国側が尖閣諸島問題を放棄し、東シナ海を緩衝海域とするように見える。先人たちの知恵に戻りつつある。光秀は本能寺の変にて主君討ちの汚名を被り、秀吉と八百長戦(山崎の戦い)を行い負けて首を取られたことにし、千利休に背乗りした可能性が高い。背の高い身内(目が優しい背を丸めた肖像画の千利休)を表の千利休にし、光秀は裏の千利休(目が無表情な千利休)となったのかも知れない。表千家、裏千家はここから来たのかも知れない。千利休の茶室が真っ暗な密室で、密談、説得に適し、裏の千利休に扮した光秀が真っ暗な茶室内で武将達を脅し、説得していたことを想像した。山崎の戦いで千利休が秀吉の陣に持ち込んだ妙喜庵以外の茶室が残っていないことも奇妙で、千利休の活動証拠を隠滅したのだろう。 (信長・光秀の共同作戦)本能寺の変により徳川幕府・清朝成立への道が付けられ、両政権が完成したことで東アジアは長く平和な時代を迎えることができたが、本能寺の変の大嘘で成立した徳川幕府・清朝は明治維新・革命という大嘘で簡単に消滅した。大嘘で成立した政権は大嘘に弱いということなのだろう。一度、戦火を開くと簡単には収まらない。1467年(応仁元年)応仁の乱が起きた。応仁の乱を起こした当事者たちは、それが原因でまさか戦国時代がやって来るとは想像もしていなかったことだろう。自らの利益のために戦火を開くと当初は利益を生んでも結果的にすべてを失う。応仁の乱勃発から171年後の1638年(寛永15年)島原の乱をもって日本国内の内乱は終結した。いずれの戦争も同じで、圧倒的な力を持つ者が一方的に勝利をおさめ、一方的に利益を享受し続けることなどない。一度開戦すると何代にもわたり戦争を続けることになり、戦争で得た利益はやがてすべて吐き出しさせられ、利益享受していた一族は没落する。戦国時代の歴史がそれを語っている。