岡山藩閑谷学校

儒教を学べる校庭

校門へつながる南北直線道の入り口から学校を仰ぎ見ると借景山と空の景観が楽しめる。借景庭園は「簡素な庭園」の基本どおり、手前に掘池(泮池)、次に芝面、石塀、建屋そして借景山の単純構成で、掘池が借景山と青空を高く見せる。易経33天山遯、山は天に接しているように見えるが、山に登れば天は遥か遠くに離れていく。天と山は先生と生徒の関係。先生を追いかければ追いかけるほど先生は遠くに離れていく。学生はいずれ先生から離れていく。離れる時期は早すぎても遅すぎてもだめだと語っている。南向きの公門、校門、受付門が東西方向一直線上にある。その門をつなぐ石塀は上辺が丸い。門や校内の建屋の瓦が赤いので、曲線城壁と赤い屋根瓦の沖縄首里城風景に似て見える。清朝の中国、李朝の朝鮮、琉球王国の沖縄の文化と通じるものを感じさせる。石塀手前の掘池は石塀と平行に伸びている。石塀の奥に講堂がそびえ、聖廟、閑谷神社の屋根が見える。この閑谷学校(しずたにがっこう)は山に囲まれた節度ある美しさの中にある。易経52艮為山、山また山の中、時が止まったような所で、精神を止め一生懸命学べと諭している。校門へつながる一直線の道は、校門を貫き聖廟(孔子廟)に至る。聖廟手前の門両側にはカイノキの大木が枝を伸ばしている。この直線参道を北に延長すると岡山藩和意谷池田家墓所を通過し、鳥取藩池田家墓所に到達する。この参道を歩き校門を潜り聖廟に向かうことは両藩主池田家墓所に向かうことにつながっている。校門の枠中に見せる聖廟(孔子廟)を目標に学生を歩かせ、校門を潜らせ聖廟に近づくことは後に戻ることのない将来に向かって歩き、儒教を学び将来を切り開く気持ちにさせることだが、同時に両池田家墓所に向かって歩かせ、聖廟で祈ることは両池田家の墓所に祈りを捧げることにつなげている。山の豊かな樹木が易経53風山漸、山上に木があり徐々に大きく成長して行く。精神を止めた場所で、ゆっくりと人の道を学び成長し将来に向かって進むべきと説いている。学校東側に椿山がある。いろいろな種類のツバキが植えられ寒い季節に花を咲かせる。椿山は池田光政の爪と髪の毛が埋められた椿山墓所となっている。その直線参道、東側の南北方向に伸びる堀のような直線池、この直線に沿って線を北に伸ばすと同じく和意谷池田家墓所を通過し鳥取藩池田家墓所に到達する。公門、校門、受付門、聖廟の門、閑谷神社の門、聖廟、閑谷神社、講堂、文庫も同じく両池田家墓所にピッタリと向けて建てられている。位置の異なる参道、建屋の延長線すべてを両池田家墓所に合わせている。これらの門で礼をし、聖廟、閑谷神社で礼拝、祈祷することは両池田家墓所に対して礼拝、祈祷することにつながっている。講堂で北に向かって学ぶことは、両池田家墓所を意識しながら学ぶことになる。北に座る先生の講義は両池田家墓所に見守られたものである。学校全体で両池田家墓所に祈りを捧げている。1670年(寛文10年)当校は岡山藩和意谷池田家墓所と鳥取藩主墓所を結んだ線上に建立された。閑谷学校を開設した池田光政(1609年~1682年)は1616年、姫路藩主となり、翌年1617年、鳥取藩主となり、1632年、岡山藩主となった。池田光政と入れ替わりで岡山藩主から鳥取藩主となったのは池田光仲(1630年~1693年;池田光政の父(池田利隆)の異母弟(池田忠雄)の長男)。1682年(天和2年)池田光政が亡くなってから1702年までの間、津田永忠(1640年~1707年)が、聖堂と講堂の改築、芳烈祠の建立、石塀と門の設置などの再整備を行った。その際に上述の通り門、聖堂、講堂、参道の向きを調整し、本校を両池田家墓への祈祷所としたのだろう。儒教で祀った和意谷池田家墓所と儒教の当校はセットになっていることも読み取れる。本校は岡山藩東端にあり、隣接する赤穂藩は藩政が困窮し続けていた。美作郡、佐用郡は幕府領、旗本領、藩領が細切れとなった地域なので、岡山藩は当地にしっかりとした教育を施し、池田家を崇拝させ、当地の藩民の心をまとめ細切れの幕府管轄とされることのないようにしたのだろう。山が目立つ学校なので、易経26山天大蓄、天を山中に取り込むように、真実の心で学び学問を蓄えろと学生に迫ってくる。本校の東西方向について見ると直線の石垣及び掘池に沿って西に線を伸ばすと備中高松城天守閣の北側、臥牛山山頂付近に到達する。堀池(以前は川掘)の水源は臥牛山という意味だと推測した。東にはピッタリとした聖地が見当たらない。各建屋は約53㎞西の臥牛山山頂に向いている。建物に沿って西の空を見ることは臥牛山山頂を遥拝することにつながる。臥牛山中には備中高松城天守閣がある。その備中松山藩は本校の再整備以前に藩主が入れ替えに関わるトラブルがあったが、当校再整備後、問題が発生していない。幕末期、備中松山藩が輩出した山田方谷(1805年~1877年)は長州藩などが手本とする政策を次々と実行し、備中松山藩の借金を全額返済しただけではなく藩を豊かにし、明治維新をうまく乗り越えた。1870年(明治3年)閉鎖されていた当学校を1874年(明治7年)山田方谷は閑谷精舎として再興させた。迷信的な文書になるかもしれないが庭の掘、川、瀧の源流位置の先にある遥拝先には災いが無く、遥拝方と当方の両方に幸運がもたらされように見える。祈りが込められているからではないだろうか。講堂内を見学していると小学生の男の子が祖母に向かって「(講堂内は)韓国ドラマで見たのと同じ(作り)だ。」と声を上げた。講堂内は声が良く通る。当校開所当時、中国では明朝から清朝へ政権交代した時期で儒学に混乱が生じていたが、朝鮮では儒教文化が深く浸透していた。校内に中国山東省曲阜(きょくふ)孔子廟を遥拝する参道、建屋がないのは当時の情勢と関係があるのかも知れない。もしかすれば各建屋、石垣及び掘池は対馬へ向かって漕ぎだす韓国巨済島の港に向けたものかも知れない。その港と本校とを結んだ線上に臥牛山があるということかも知れない。曲阜の孔林から種子を持ち帰り植えた聖廟前のカイノキ(学問の聖木)が大木になっている。講堂を取り囲むような火除山は古墳のような形で、芝面となっている。その近くに多数のマツを育てている。シンプルな美しさがある。大きくなる松が楽しめる。火除山と石塀との間に細い通路がある。その一直線の石塀の両端に飲室門と校厨門がある。左に火除山、右に石塀を見て、通路を東南方向に伸ばすと熊野本宮大社大斎原に到達する。通路の先に見える山の左奥の山頂が熊野本宮大社大斎原遥拝目印となっている。学房跡(宿舎)から講堂に向かう通路を通ることは熊野本宮大社に向かって歩くことにつながり、左の山頂を拝むことは熊野本宮大社を遥拝することになる。飲室門の出入り口は東北方向に99㎞先の豊岡城天守台跡に向いている。この門を潜って校内に入ることは豊岡城天守台跡に向かうことにつなげている。京極氏が治める豊岡藩は無城大名で、陣屋にて藩経営を行っていた。藩内の人事に問題があり藩経営は困難が続いていた。上述の池掘(川)の源泉として遥拝されていた備中高松城天守閣の備中松山藩とは対照的だ。人は拝み倒されるより尊重されるべき。拝み倒される人を目指すのではなく尊重される(祈られるような)人を目指せ、人を拝み倒すのではなく尊重しろ、人には祈りを届けろと庭が教えてくれているように思う。出雲大社御本殿と丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)の二つ鳥居を結んだ線は本校の閑谷神社を通過する。高野山を参拝する人は、高野山に登る前に二つ鳥居から丹生都比売神社に参拝する習わしがあったと伝わるが、丹生都比売神社の二つ鳥居から出雲大社を遥拝することは閑谷神社に祈りをささげることに通じている。本校名「閑谷学校」は静かな谷の学校と言う意味になると思う。易経に当てはめると「58 兌為澤」ではないかと思う。相互に悦び合いながら、朋友が共に勉学にいそしみ、相互に益し合うように努力する学校という意味ではないかと思う。本校は規律ある風景配置となっている。池掘(兌)、水(坎)、空(天)、田畑(震)、山(艮)、林(巽)、平地(坤)、太陽(離)などを8つの掛と見立て、変化する風景にいずれかの2つの掛を組み合わせ、易経の64掛に当てはめ、その意を考えることができるようにしたのではないだろうか。学生が卒業する時は易経59風水渙、掘池の上に新風がなびく。新風が来た時のように卒業生が社会へ第一歩を踏み出す。卒業生たちは儒教を胸に当校から離れていく。水面には同級生たちが離れていくように漣が立っている。直線の掘池、直線の石塀、規則正しい配置にある門、各建屋、その背後の山斜面上の芝面、さらに背後には山に育つマツなどの常緑樹と落葉樹の林。山の上には青空。規則正しく配された風景はリズミカルで心地よい。近年まで現在の駐車場は田畑や水田、掘池は川掘、川掘りと石垣との間(現在芝面となっている所)は茶畑だった。田畑や水田は規則正しく整地されるものだし、茶畑は波打つ大刈込と同じ効果を果たすので、改造される前の風景は現風景以上に音楽が流れているようにリズミカルで、軽やかだったはずだ。山、建屋、石垣、水面、田畑は太陽光を反射するが陰を生じる。陽の中に陰を含むので、リズムに深みが加算されている。駐車場の一部を水田に戻し、芝面を茶畑に戻した方が美観は向上すると思う。規則正しい水田、海原を模したリズミカルな茶畑の向こうに整然とした本校を眺めることができる。藩を会社に例えると当校は会社経営の学校そのものだ。封建時代は今とは社会構造が異なるので我々にとって儒教は佛教以上に遠いものとなったが、校庭に儒教の教えを感じる。儒教五経の一つ「易経」の象意が天候の変化にていろいろ読み取れる楽しみがある。