鹿苑寺(金閣寺)

源氏聖地遥拝所、金閣

30年以上にわたり相当回数見学しているが、いつも観光客の列ができている。最近は欧米の観光客が多い。金閣(舎利殿)を含む主な建屋は東に久能山東照宮を、南に狐井城山古墳を遥拝する方向に向いている。金閣と久能山東照宮を結んだ線は下賀茂神社の供御所、神殿殿を通過する。金閣と狐井城山古墳とを結んだ線は、狐井稲荷古墳、上牧久渡3号墳(すぐ傍に上牧久渡2号墳)、椿井春日神社(近くに宮裏山古墳)、船山神社を通過する。金閣の西に突き出た部分は清和天皇陵を遥拝する方向に伸びている。金閣と清和天皇陵とを結んだ線は清和天皇社を通過する。金閣と高野山金剛三昧院本堂を結んだ線は石清水八幡宮(伊勢神宮遥拝所)を通過する。庭には金閣から南に石清水八幡宮、金剛三昧院、狐井稲荷古墳を遥拝する目印があると思う。金閣は沢山の山裾に包まれた源氏聖地遥拝所だ。東山の山裾に包まれた銀閣も金閣と同じく源氏聖地遥拝所だ。銀閣寺(慈照寺)の銀閣、庫裏、茶室は久能山東照宮を遥拝する方向に立っている。1397年(応永4年) 金閣が作り始められ、1482年(文明14年) 銀閣が作り始められている。それに対し久能山に徳川家康が埋葬されたのは1616年(元和2年)、東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営されたのは1617年(元和3年)。久能山はずっと以前から源氏の聖地だったことが判る。尚、銀閣寺の本堂、東求堂は駿府城天守台遥拝方向に建てられている。銀閣寺の各建屋は共に南の熊野本宮大社大斎原を遥拝する方向となっている。銀閣と清和天皇陵とを結んだ線は相国寺勅使門のすぐ南、相国寺境内、龍安寺境内にある後朱雀天皇陵、後冷泉天皇陵、後三条天皇の陵のすぐ北を通過する。脱線するが、久能山東照宮と清和天皇陵とを線で結ぶと、大徳寺方丈前庭園、聚光院(千利休の墓、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所がある)、総見院(織田信長坐像と墓がある)、大徳寺境内の龍翔寺(大政所、佐々成政の墓がある)を通過する。織田信長、千利休、大政所は源氏の世界を完成させる役割を果たした人達だったことが読める。この線は五山送り火左大文字の北側70mほどを通過するが、線から約500m南に金閣がある。金閣寺庭園は1224年(元仁元年)藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘を営んだことに始まる。鎌倉時代末期頃、西園寺家が没落し、庭や建屋が荒れた。1397年、足利義満が西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新し「北山第」を造成した。足利政権が安定していたのは「北山第」を造成した頃から、1420年頃、足利義持が金閣を除く他の建屋を全て取り壊す頃まで。河内源氏の棟梁として選ばれたはずの足利家は身内の政治闘争で応仁の乱を招き、幾多の身内の政治闘争で戦国時代に突入させ滅亡した。応仁の乱で金閣寺は西軍の陣となり建築物の多くが焼失し、庭も荒れ、池の水量も減った。尚、足利氏の血流は途絶えることなく江戸時代に旗本となり継続した。同じ血流の河内源氏、徳川家康が起こした徳川幕府では身内の闘争による内戦が起きていない。足利幕府の問題点を良く検証し内紛が起きない組織としたことが読める。江戸時代になって主要な建物が再建され、1649年(慶安2年)金閣(舎利殿)も大修理され庭に手が入れられたようだ。1894年(明治27年)庭の一般公開が始まった。観光客が歩く道を広くするなど明らかに庭に手が加えられている。衣笠山、沢山など山々を借景とする美しい庭であるが、観光客用の通路を大きく取ったが為に相当に景観が変わったように思う。1950年(昭和25年)放火により金閣は全焼し、再建された。現在の金閣も再建の際にその向きが微妙に調整されたと思う。173年間の「西園寺」庭園、29年間の「北山第」庭園、約200年間の荒れた時代、江戸時代になって整備され現在まで続く約400年間の庭園、庭のマツが樹齢400年を超えるようには見えないので、現在の庭は江戸時代初期に整備された庭だと断定できるはずだが、山々を遥拝する庭なので浄土庭園のようにも見え、「西園寺」時代の雰囲気も残っているようにも見える。白蛇の塚がある池周辺に住居を建てることを許さないことで池の水源となる山の樹木が守られ水が綺麗なまま流れ出るので金閣寺庭園すべてが守られている。一般的に江戸庭園の池の中の島には橋が架かっているが、この庭の島には一つも橋が架かっていない。「西園寺」庭園、「北山第」庭園の雰囲気を感じさせることを念頭に置き整備したのだろう。今は金閣を鑑賞するための庭か、金閣から鑑賞するための庭か判読できないほどに金閣が美しく見える。これは一般公開以降、金閣を美しく見せることを第一にした観光用の道を整備したためだと思う。京都の多くの庭は時代と共に変化を続けている。そのため金閣ができた当初の庭の目的がよく判らなくなっているが、金閣など建屋の遥拝方向から判読するに清和源氏の支流である河内源氏の足利氏が源氏の棟梁として選ばれ、足利氏はその勤めを果たすことを示すために源氏の聖地を遥拝する金閣、銀閣を作った。金閣から各聖地を遥拝し、聖地と対話することを第一目的としていたと推定した。