陰の庭から見る比叡山
薄暗い客殿内に東へ向いて座り、薄暗いヒノキ、スギの太い幹と幹との間から比叡山を眺望する。春はサツキ、秋は紅葉が楽しめる。庭を取り囲む高さ約1.6mの生垣、そして生垣の先の樹木の頭と客殿庇の間に比叡山がある。左右の眺望角度は約120度だが目隠しの木々が多く、比叡山は客殿南側から山頂付近だけ明瞭に見える。客殿建屋は比叡山山頂に向かい約15度、東南方向にずらせてある。客殿の間の畳みの縁に沿って座ると首を少し左に動かし比叡山山頂を拝むことになる。なぜ客殿建屋を比叡山山頂の真正面にとらえなかったのか。京都を守護する比叡山を客殿正面に来るようにしなかったのか。客殿を遥拝所とせず比叡山の美しい姿だけを楽しむ庭としたのか。その理由を探るためグーグル地図上で客殿の長手方向(南北方向)に沿って線を南に向けて引いてみた。すると京都御所に到達した。つまり客殿の長手方向を京都御所に向け京都御所を遥拝方向に定めたため、客殿正面を比叡山山頂の方角から時計回りの方向に約15度外した。40種以上の樹木で作られた大刈込の生垣は円通寺と比叡山との間にある建造物を目隠しするためのもの。生垣で囲まれた庭は一面の苔面となっている。その庭の左側から中央にかけて紀州藩から送られた40余りの大小の海石が埋められている。それぞれの海石は約三分の二が地下に埋められている。地上には海石の頭が出ているが、その形は虎伏山に建造された和歌山城を連想させる虎の姿に見える。しかし、虎は集団生活をしないので獅子の大集団なのだろう。まるで獅子の大きな三列の群れが庭を移動しているように見える。円通寺から見た比叡山は獅子の姿に見えるので比叡山山頂に合わせて石を置いたことがわかる。この石の配置が庭にリズムを付けている。まるで獅子の形をした比叡山が庭に渡って来たように見せている。庭先正面、生垣の外側にスギ、ヒノキ、スギ、ヒノキの大木4本を一列に育て、その4本の大木の右側、生垣ライン上に更にスギの大木1本を育て、生垣の内側、庭の右端部分にスギ、ヒノキの大木を育てている。庭の左端、生垣ライン上にも背の高いスギを育て、その生垣ラインの外側、庭から少し離れたところにかけても幾本かの背の高いスギをかためて育てている。生垣ラインの外側には上述のヒノキ・スギの大木以外にカエデを育てている。生垣ラインの左側のライン上にカエデが1本あり、その更に左側、生垣ラインの内側にカエデを2本、生垣ラインの反対側(右側)ライン内側にカエデを1本育てている。このようにヒノキ、スギ、カエデが生垣ラインの外から内にリズムよく配されている。この配置にて生垣の先にある比叡山が庭園内に近づいて来るように感じさせている。正に比叡山を客殿内に取り込む庭である。暗い客殿内から眼前の薄暗いヒノキ、スギの大木の幹を通して望むと当然ながら瞳孔が開く。そのため比叡山の上空は明るく、太陽光を反射する比叡山もより明るく見える。庭が比叡山を近くに寄せるようになっているので、比叡山を集中して見ていると開いた瞳孔を通して見た比叡山が心に入り込んで来る。1639年(寛永16年)頃、後水尾上皇(1596年~1680年)が「これ以上美しく見せる比叡山が無い」というこの地に山荘御殿(円通寺)を建立された。同じ頃、後水尾天皇の指示で清水寺塔頭成就院が建立され、そこには後水尾天皇と中宮の東福門院和子の愛の証のような庭がある。後水尾上皇が約12年をかけて物色しこの地を山荘御殿に定めたと伝えられている。12年前と言えば1627年(寛永4年)紫衣事件が起きた年である。紫衣事件の2年前すでに天台宗の中心は比叡山延暦寺から上野寛永寺に移されている。これら年代を見ればこの庭は後水尾上皇の幕府に対する不満表現に観える。幕府はこの庭が造られた直後に、小堀遠州(1579年~1647年)に正伝寺庭園を作らせたと推測できる。正伝寺の庭は寛永年間(1624年~1644年)伏見城の庭を移設したと伝えられているが、正伝寺庭園を見れば、そして幕府と後水尾上皇との関係を思えば、当庭園が見せる美しい比叡山に被せ、同じ形の比叡山を美しく見せる正伝寺庭園を小堀遠州に作らせたことが容易に推測できる。後水尾上皇は愛した比叡山を美しく見せる山荘御殿を1653年~1655年頃手放した。ちょうどその1653年(承応二年)正伝寺には南禅寺塔頭金地院の小方丈が移建され本堂とされた。山荘御殿(円通寺;海抜107m)を背後から見下ろすような位置にある正伝寺(海抜145m)に立派な本堂が移建されたことは後水尾上皇にとって我慢できないことだったのだろう。後水尾上皇の指示で造営された修学院離宮の造営時期(1653年(承応2年)~ 1655年(承応4年)からもそれが推測できる。幕府への不満を表現した陰の庭から比叡山を見る円通寺庭園、それに対抗し作られたこれ以上の明るさがない陽の庭から比叡山を見る正伝寺庭園。結果的に両庭園は同じ形の比叡山を見せ、陰陽セットの庭となった。いずれの庭とも比叡山に昇る太陽、月は同じように美しいことだろう。紫衣事件を引き金とした幕府と後水尾上皇との係争が同じ形の比叡山を違って見せる二つの名園を生み出しその後の日本庭園の手本となった。