江戸時代、相国寺の北から流れて来た小川の水を、相国寺開山堂を通し聖水にして、今出川門付近を抜けさせ京都御所の四周へと流していた。近衛邸跡庭園は今出川門から御所に通じる道に接しているので、聖水を近衛池に引き入れていたように見受けられるが、今は近衛池にわずかな水たまりがあるのみ、池と背後の築山からなる復元可能な庭跡となっている。池の排水路が見つからないが、浅い池なので、東北側から取り込んだ聖水を浅瀬のような池に通し、清々しく見せる庭だったと思った。さて、足利義昭が征夷大将軍職を朝廷に返上した際それを受け取り、後に征夷大将軍職を徳川家康に任じた後陽成天皇(1571年~1617年)の男系子孫が近衛家の歴代当主へとつながった。近衛池を通過した水が京都御所の四周へと流れ込んでも、後陽成天皇の子孫の皇別摂家の池なので、不敬にならなかったのではと思った。寝殿造りの政所御殿は1767年に奈良の西大寺に移築され愛染堂として使われている。寝殿造りの外観から貴族の家屋の雰囲気を感じることができる。堂内は真言律宗の礼拝場となっており、どこまでが貴族内装だったのか判らなかった。数寄屋棟と茶室棟は西尾城内に移築されている。その建屋の中で御茶を頂いたが、現代庭に取り囲まれているせいか普通の家と大差ないように感じた。大玄関は東福寺塔頭勝林寺に移築されているので、訪ねたが門が閉まっていて写真撮影できなかった。ネット写真を見ると堂々とした大玄関だった。このように今なお移築された建屋が使われていることから、後陽成天皇につながる近衛家の名声の高さを感じた。いつ作られた庭か判らないが、儒教的で易経「42風雷益」益する道を表現しているので、江戸中期に幕府が作庭したものだろう。庭を慈しんだ最後の当主は近衛忠煕(1808年~1898年)、最後にこの庭で育ったのは近衛忠煕の孫、近衛篤麿(1863年~1904年)、そこから近衛篤麿の活躍と「42風雷益」の象意から皇別摂家について観察することにした。しかし帝国主義を掲げ、経歴上では戦ったことがなく、政治外交経験がないのに豊富な実践経験を有したように自ら日本帝国陸海軍を束ね日清戦争を指揮し、豊富な政治経験を有したように外交命令を下した明治天皇。先代の攘夷を掲げた孝明天皇と政治的つながりはなく、儒教、仏教を排除し、母親の墓参りにすら行かなかったので、歴代天皇とは別の血流人に見える。そのような背景の下、後陽成天皇の血流の篤麿は皇別摂家当主らしく、風を吹かせ、雷がとどろくような力強い活動をされたので、多くの困難に直面されたことが想像できる。①後陽成天皇の血をひく近衛家は皇族貴族から特別扱いされなかったとしても、民からすれば特別な存在であった。現在の近衛家は清和天皇を祖とする河内源氏の血流となったが、同じく民から特別視されている。天皇家とは違い一般大衆に近い存在なので親近感があり、活躍の世界が広くなって当然だ。篤麿の学生時代、留学を終え貴族院議員となったばかりの駆け出し時代は上下の方々から恵を受け、引き立てを受け順調に進めたが、貴族院議長の地位になると周囲の期待に応えるため、無理をしなければならない立場に立たされ続ける。上下の者と意思疎通をすることで議長職を務め、次いで教育事業を進展させ、協力者を得て志を遂げようとした。しかし、皇別摂家者の宿命で最高位に立つと中傷、誹謗されやすくなり、不慮の災いを受けやすくなる。篤麿が祖先を見習い最高位の一歩手前で謙虚に職務を果たした時は上昇を続け、益する道を歩き続けることができたが、首相に押される気運が高まった時、中国でかかった伝染病が原因で病没した。もし長男の近衛文麿(1891年~1945年)が父の東洋を保全する政治目標のみを引き継ぎ、首相にならなければ、GHQの発令で戦犯者として逮捕される直前に自決する悲劇は起きなかったと思う。今なお近衛文麿首相への誹謗中傷は絶えないが、近衛家への誹謗中傷は皆無だ。近衛家が誹謗中傷されるのを避けるために近衛文麿首相が自決したことで、今なお近衛家には益なる道が続き、謙虚な活動の中におられるように見える。②1885年、篤麿はヨーロッパ留学への船旅中、台湾海峡の澎湖島に立つフランス国旗を目撃し、清の次は日本だと恐れた。当時の中国、シンガポールの貧しさを見た。留学先のオーストリア、ドイツで欧州人が日本人を見下していると感じた。森鴎外ら多くの日本人留学生と交流した。世界最大の植民地を有するイギリス旅行でイギリス国民の大きな貧富の差を見た。このように物事を心で観察し、自らの心が納得した「東洋のことは東洋人自らで解決すべき」思想形成を行った。ドイツ憲法や国法学を学び政治家への準備を行った。③1890年に帰国、公爵であった近衞篤麿はすぐ貴族院議員に任ぜられた。同年、第1回帝国議会が開会されることになっていたが、貴族院議長の伊藤博文、副議長の東久世通禧が病のため、留学を後押しした伊藤博文の推薦で翌年1月、貴族院仮議長を務めた。新風が吹き旧いものが散り散りとなるような交代だった。1896年に貴族院議長に就任、病気退任の1903年まで務めた。④近衞篤麿は院内会派の同志会を結成、1891年に三曜会と改称、三曜会が衰退すると朝日倶楽部と合併、活動が低調になった懇話会とも合併した。「議員は、皇室を護り、憲法を守り、忠実に国利民福の道を講ずべき」との理念を持ち、富国強兵を進める明治天皇が吹かす風に乗り、利己的な行動は取らず純粋に東洋を守る政治活動を行った。明治天皇が侍従長を介し篤麿に意見があれば何事も随意に奏聞するように命じたのは、篤麿の活動を注視していた証だと思う。⑤篤麿の活動から周囲の者は強い政治風を吹かせ明治天皇を押さえるほどの政治力、影響力がある人のように映っていたことだろうが、1894年7月、篤麿の政治理念とは大きく異なる日清戦争が勃発した。篤麿は東洋を保全する政治活動を行い続けるも、日清戦争を境に東洋は戦争の時代へと突入し、1975年のベトナム戦争終結まで悲惨な戦争が続いた。
1894年7月25日から翌年4月17日までの日清戦争において明治天皇は9月15日から翌年4月26日まで広島城内の大本営にて戦争と外交の指揮を執った。9月17日、黄海海戦に勝利、遼東半島への進軍を可能にし、10月25日、鴨緑江を渡河、11月21日に旅順要塞を攻撃し占領。翌年1月、陸海軍共同作戦の威海衛の戦いで渤海湾を制海、3月に港がある営口を占領、同3月に台湾占領のため清国海軍基地の澎湖諸島を占領、4月17日下関条約の締結で台湾の割譲を受けた。終戦直後に起きた三国干渉で日本は遼東半島を清国に返還した。遼東半島はロシアが清国から租借した。台湾の日本統治が始まった。篤麿は東洋の団結を追求したが、明治天皇は東洋の一部地域の統治を追求。相容れない政治目標を持つ両者が手を携えることなどできるはずがなかった。江戸時代の天皇家と皇別摂家との親戚関係とは違った。⑥1895年、篤麿は学習院院長となった。日本の指導者と成るべき賢人を養う教育に力を注いだ。学習院で「華族の国家や国民に対する責任・義務が大きいこと」を語り、東洋の団結を喚起する教育を進めた。篤麿の収入は貴族院議員と学習院院長の給料のみ、政治活動にて借金が増え続けた。⑦1896年、大日本教育会と国家教育社が統合し帝国教育会設立。会長職となる。引き続き教育に力を注ぎ続ける。大日本帝国が正しい道を歩むには教育が必要だという思いが強かった。いつも変わらず「清国を保全し、清国及び朝鮮の改善を助成し、日清提携による西欧列強への対抗」を実現させるため政治活動した。⑧1897年、日本女子大学校創立では大隈重信早稲田大学創立者、伊藤博文総理大臣、西園寺公望文部大臣、そして財界人、渋沢栄一、岩崎弥之助らと共に学習院院長として支援した。天にとどろく雷のように盛大に自らの教育論を推し進めていたことが想像できる。⑨1898年、篤麿は東亜同文会を設立、中国、朝鮮の保護と日本の権益保護のため外務省、軍部と提携して活動した。中国では下関条約に憤慨し清朝に対抗する政治運動をした強学会が清朝に明治維新をモデルとした改革を上奏、認められ改革実行するも反発を受け、1898年に強学会メンバーで日本に亡命した康有為(1858年~1927年)、梁啓超(1873年~1929年)らと篤麿は交流した。彼らは辛亥革命の礎を作った。1899年、南京同文書院を設立。1901年、同校を上海に移転し東亜同文書院として新たに開校した。この学院では中国人と日本人の学生が共に儒教を基にした道徳教育を受け、商務科、政治科、農工科にて学び、多くの商業、金融従事者を輩出した。清国の要人、劉坤一両江総督(1830年~1902年)、張之洞湖広総督(1837年~1909年)にそれぞれ2回会い、日清の連携を持ちかけた。篤麿の影響か両名とも教育の重要性を説いている。正に、太陽が天の中央に輝いているような公明正大な働きをし、東洋のことは東洋人が自ら平和解決する道を探し求めた。⑩1900年「扶清滅洋」をスローガンにした義和団の乱が起きた。結果、八カ国連合軍の派遣に至り、ロシアと日本が最も多い派兵をした。満州を占領したロシアから日本に雷がとどろくと同時に地震が起きるような要求がされた。それは朝鮮半島に逃げ込んだ義和団を捕まえるため朝鮮半島にロシア軍を派兵したい、そして日本と朝鮮半島を分割支配したいとの要求に危機を感じた篤麿は国民同盟会を結成し、弱腰な日本政府に対し批判を行った。一方、義和団事件後、避難していた西安から北京に戻った西太后と光諸皇帝には自らを外臣と称し祝電を送った。⑪1902年、清とロシアが満州還付に関する露清協約を締結したのを機に国民同盟会は解散したが、ロシアが清との約束を守らず撤兵しなかったので、1903年、篤麿は国粋主義者や対外硬派と共に対露同志会を結成した。日本国内世論は日本を守るために失った遼東半島を取り返すべしだったので篤麿は脚光を浴びる。脚光を浴びたことで、長い時間をかけ秘密裏に日露戦争を準備していた明治天皇から危険視されたのではないかと思う。⑫1903年、篤麿は貴族院議長を辞任し枢密顧問官に。小川平吉、頭山満らが篤麿を首相とする内閣を作る活動をしたが、そのさなか病没した。直後、篤麿の希望通り日露戦争が始まる。篤麿が亡くなって100年以上の時が過ぎたが、未だ篤麿の政治目標「東洋のことは東洋人で解決する」は完成していない。この目標は障害が多く、悩みが深い。篤麿は1911年~1912年に辛亥革命を起こした孫文に影響を与えた人物だと伝えられている。近衛篤麿は儒学を基に行動されたので、もし首相就任していたとしても明治天皇の帝国主義路線とは相容れず、長男の近衛文麿と同じく苦難、災難の道を歩んだことだろう。篤麿は江戸時代の清、李氏朝鮮、江戸幕府の儒教をベースとした外交で戦争と無縁だった良き時代を思い起こし、東洋に儒教をベースとした共通文化を根付かせようと教育事業に力を入れ、東洋の問題は東洋で平和解決できる体制を作ろうと事業を進められた。そして皇別摂家の近衛家当主として、後陽成天皇の分家として、情報発信力、人を驚かせる行動力にて活躍された。上記から皇別摂家は天皇家と思想を共有できてこそ、適格な行いができ、益なる道を進むことができる。どこまでも天皇家の分家なので首相のような最高位に立つことは避けるべき家柄だと思った。