竹林院群芳園(吉野)

細川忠興とガラシャの子孫繁栄祈願庭

ロープウエイ吉野山駅から下千本エリアを歩き始め、下千本の終わりくらいに金峯山寺があり、中千本エリアに吉水神社があり、最後の上千本エリアの中心山に竹林院群芳園がある。竹林院群芳園の山の標高は411.5m、庭は399m、吉水神社は358m、金峯山寺蔵王堂付近は359m、吉野駅は312mで、当院からは宿坊地区を見渡せるので、吉野を管理するための砦として使っていたことが窺える。庭には宿坊街を通らず各地へ通じる抜け道もある。この地から連想できることは大峯山を目指す山伏が不審がられず千利休の作、細川藤孝(幽斎)の改修と伝わる庭がある竹林院に出入りできること。全国をくまなく歩き回る山伏は情報員でもあったので、千利休、細川藤孝は当院で山伏から情報を収集し、山伏に調略活動の指示を出していたこと、山伏(修験者)及び金峯山寺など修験道寺院を管理していたこと、抜け道から特殊工作員を出入りさせていたことが連想できる。当院本堂は北北西3.17㎞の吉野神宮本殿(元は吉水院)を遥拝している。その背後には奈良の古墳群、(大阪)石切劔箭神社、(兵庫)豊受大神社(元伊勢外宮)が控えている。当院本堂は東北東386㎞先の(東京)上野不忍池弁天堂も遥拝している。この遥拝線下には富士山-小石川後楽園(水戸徳川家、江戸上屋敷内の庭)がある。本堂の遥拝先から当院は、南朝が活動拠点としていた当地を反政府活動拠点にならないよう睨みをきかせていた、徳川家の意向を注視していたと推測した。(修験道聖地)大峯山寺と(天皇に従って殉死する習俗をなくすきっかけとなった)桝山古墳を結んだ神仏の通り道は当院本殿-南朝妙法殿(吉野行宮跡)-佐田城の口城跡-(大和国)貝吹山城跡を通過する。どことなく西教寺客殿庭園に似た雰囲気の庭は上千本エリアの中心山の山裾を利用して作られている。山頂と庭の高度差はわずか13~14mだが、湧き水による小さな渓流があり、まるで大峯山から流れて来た水が池に注がれ大海となる様子となっている。大海部分には猪のような形をした石が池に浮いているように泳いでいるように置かれ、それに従う船のような亀島がある。このような猪の石組を見たことが無いので細川藤孝と明智光秀に関わる猪年生まれの人を調べると、細川藤孝の嫡男、忠興と千利休こと明智光秀の娘、細川ガラシャは共に1563年(癸亥)猪年の生まれだった。藤孝と千利休は子孫繁栄を願い猪のような形をした石と、それに続く亀島を配したのではないのだろうか。この庭は千利休が明智光秀であった証拠の一つだと思った。池の手前側には茶室を備えた建屋があったはずで、池は山裾と建屋に囲まれた閉鎖空間の中にあり、鏡面池の中に立つ三尊石のような3本の石はリンガ信仰を連想させる。小さな渓流の池への注ぎ口近くに火と光を感じさせる石灯籠が立ち、庭中心石となっているが、庭の主人公はやはり池の中の3本の石だと思う。現在の水面も静かだが、建屋が池を囲んでいた頃は今以上に鏡面で、池底の緑色の泥との相乗効果で樹木や空を今以上に綺麗に映していたことだろう。この池は心を静めれば心の表面が鏡面になることを見せている。千利休が作った庭なので、時の経過と共にこの庭の本質が浮かび上がるようにしたはずで、長い時を経た多くの庭石は表面に苔が育ち、豊かさを感じさせている。護岸石はごつごつとした武将や兵のような石からなり、歯を食いしばって岸を守っているかのように力強く組まれている。山裾の庭石は前傾で鑑賞者に向かってくるように配されている。そのため庭全体が鑑賞者に向かってくるような緊張感がある。春はユキヤナギの花、枝垂れ桜、カエデの若葉、続いてツツジ、サツキの花、夏はサルスベリの花、秋は紅葉、冬はツバキとアセビの花、四季を通じて色とりどりとなるようにしてあり、サクラと後醍醐天皇で有名な吉野の地にあるためか、大名が隠れ家とした雅で豊な庭という印象を受けた。