給水口から水が流入し、ゆっくりと曲水を通過し排出されるだけの単純な庭で若草山、花山、御蓋山を拝むための庭であったことは一目瞭然だ。元興寺(極楽坊)、興福寺大湯屋と同じように庭園内の復元建屋は東に御蓋山の山裾を、西に(岡山)吉備津神社本殿及びその付近を遥拝し、両聖地を結ぶ神の通り道は興福寺-開化天皇春日率川坂上陵(念仏寺山古墳)-当復元建屋を通過する。復元建屋内から庭先に開化天皇陵、興福寺、御蓋山を直接遥拝していたことが想像できる。州浜に敷かれた玉石が白っぽい。パンフレットには「龍の形を模したという説や奈良県吉野町宮瀧付近の吉野川の景色を映したという説などがあります。」と説明されている。それに対し江戸初期作の仙洞御所の州浜、近代改修された京都御所の州浜には黒玉石が敷かれ七里御浜、王子ヶ浜など熊野灘の渚風景のようになっており、熊野川、熊野本宮熊野大社、熊野速玉大社、ひいては神武東征を連想するようになっている。平城京時代作の当庭園、平城京東院庭園に黒玉石を用いていないので、平城京時代には神武東征をあまり重視していなかったのか、或いは唐朝で流行していた庭をそのままコピーしたものかと思った。水の流れの中から頭を出す神聖な石があり、対岸に置かれた石が前のめりで迫って来る技法があり、州浜の中に芝面で島を作るなど優れたデザインを持っているが、神が権現する石、神の着座石、サークル状に石を置き神域であることを示すような石組がないので、日本独自の庭ではない。奈良の水によく似合っている。中国の水も澄んだ水は少ない。水の流れと芝面からなるので女性的な庭だ。整った庭なので、易経「37風火家人(ふうかかじん)家を正す」を表現しているのではないかと思った。貞節ある女性がいてこそ家を正しくまとめられる。貞節ある女性の言動のように、言葉を発するに根拠を持ち、確固たる姿勢を持った上で行動してこそ家を正し、ひいては国家を正すことができる。そのことを表現したかったのではないだろうか。当時、唐朝で流行していた庭のスタイルではないのだろうか。