馬場正郎中将追悼庭園
普段は公開されない聖地公園。公園名「以楽」の下に2文字加えた四字成語は「以楽慆憂yĭ lè tāo yōu」(憂いごとを楽しみで以て紛らわせる)、「以楽解憂yĭ lè jie yōu」(憂いごとを楽しみで以て解消する)。「以楽」から連想する庭の意は憂慮する事を楽しみで紛らわす或いは解消するとなる。この庭は1961年 重森三玲が作った。どこか岸和田城庭園(八陣の庭)と相通じる雰囲気がある。八陣の庭では庭の周囲に境界石があり人の立ち入りを拒んでいた。当公園に普段は入れない。これらのことから帝国陸軍第四師団に関わる事柄を画いた聖なる庭だと読んだ。 庭の石々は将官、佐官らを中心とする将兵達で、海を前にして立ち何かを見つめているようだ。石々が向いている南南東方向にはグアム島・サイパン島などマリアナ諸島、更にその先にニューアイルランド島、ニューブリテン島がある。そこでWikipediaに頼り太平洋戦争中における第四師団の行動を調べた。第四師団は1942年(昭和17年)3月、上海からルソン島に移動し「フィリピンの戦い(1941年-1942年)」第2次バターン半島攻略作戦に参戦、コレヒドール島上陸に成功し同攻略戦の勝利に大きく寄与し同年7月に日本へ帰還した。その後、1943年(昭和18年)11月、スマトラ島に移動し同地の警備に当たり、1945年(昭和20年)2月、タイに移動しビルマ国境警備に当たり終戦を迎えた。第四師団はサイパンの戦いに参戦していないのでマリアナ諸島とは関係ない。庭の石々はフィリピン、インドネシア、タイに向いていないので、太平洋戦争中の第四師団の行動を画いたものでもない。調べた範囲だが、第四師団は太平洋戦争初頭に短期の勝ち戦に貢献したこと、1944年、隷下の歩兵第61連隊がビルマで撤退中の部隊を援護しつつ最後尾で激戦を繰り広げた以外に参戦はなく、何ら事件も起こさず、何の事件にも巻き込まれなかったラッキーな師団である。しかし庭の石々(将官達)は何かを見つめている。そこから第四師団に関わった人物の事件を見つめ、それを画いたものだと推測した。そこで太平洋戦争の戦闘に参戦した第四師団長歴任者で事件に巻き込まれた方を調べた。そうすると1943年(昭和18年)9月から1944年(昭和19年)12月まで第四師団長だった馬場正郎中将(1892年~1947年)が浮き上がった。敗戦後の1946年(昭和21年)1月にBC級戦犯容疑(サンダカン死の行進)で拘留され、同年7月に絞首刑判決が下され、8月ニューブリテン島のラバウルで絞首刑が執行された。庭の石々が表現する将兵はラバウルで処刑された馬場正郎中将を偲んでいると推定した。「サンダカン死の行進」は第四師団がインドネシアを離れた直後に発生したことなので第四師団と直接関係はないが、馬場正郎中将が第四師団長の任期を終え、引き続きボルネオ島を守備する第37軍司令官となった直後に起きた事件なので第四師団将兵全体でニューブリテン島のラバウルで処刑された馬場正郎中将らBC級戦犯者に哀悼の意を表するために作庭したと読んだ。さて、庭の石々のモデルは誰だろうか。それを推測するため第四師団長歴任者で太平洋戦争に参戦した方々を書き出して見た。階級は第四師団在任中の階級とした。沢田茂中将(1887年~1980年;第四師団長1938年7月15日 -)1940年12月、第13軍司令官となり太平洋戦争を迎え、中国戦線で活動。1942年10月8日、参謀本部付となり、翌月予備役に編入された。山下奉文(1885年~1946年;第四師団長1939年9月23日 -)1941年12月8日、第25軍司令官としてマレー作戦を開始した。一般的に言われる太平洋戦争の戦火を開いた。英領マレーとシンガポール攻略で大戦果を挙げた。第四師団長歴任者中、最高の戦績を上げた。1943年(昭和18年)2月、陸軍大将に親任され、1944年(昭和19年)9月、フィリピン防衛のため再編成された第14方面軍司令官に親補され、フィリピンの戦い(1944-1945年)を指揮し約42万人の犠牲者を出したが最後まで負けなかった。日本敗戦による降伏後すぐに戦犯として捕えられ、1945年12月7日マニラで死刑判決を受け、翌年処刑された。遺体の所在は不明である。当公園の西南に石組みがあるが、この石組みはフィリピン方面の山下奉文を偲ぶための石組みではないかと思う。当公園の主モチーフとしては桁が違い過ぎる大人物だ。北野憲造中将(1989年~1960年;第四師団長1940年7月22日 -)歴任中、中国戦線で活動した。フィリピンの戦い(1941年-1942年)があった。1942年(昭和17年)7月、陸軍公主嶺学校長に就任し、第19軍司令官を経て、陸士校長として終戦を迎えた。1945年(昭和20年)9月、第12方面軍兼東部軍管区司令官となり、次いで東部復員連絡局長を勤め、1946年(昭和21年)3月に復員した。亡くなられた翌年にこの庭が作られている。関原六中将(1889年~1944年;第四師団長1942年7月18日 -)第4師団長後、本土防衛の為に留守第4師団を基幹に大阪で編成された第44師団初代師団長就任直後に亡くなった。馬場正郎中将(1892年~1947年;第四師団長1943年9月25日 -)1941年(昭和16年)留守第16師団(京都)を基幹に編成された第53師団(京都)の初代師団長。同師団長任期終了後、第四師団長に就任。義理兄に小林躋造(1877年~1962年)帝国海軍軍人(海軍次官、連合艦隊司令長官歴任、最終階級は海軍大将)で政治家(台湾総督、翼賛政治会総裁、小磯内閣の国務大臣を歴任)がおられる。義理弟に早川幹夫(1894年~1944年)帝国海軍軍人(第2水雷戦隊司令官としてオルモック湾海戦に参戦、旗艦「島風」が撃沈され戦死)がおられる。木村松治郎中将(1894年~1950年:第四師団長1944年12月26日 -)第4師団長に親補されスマトラ島に赴任。ビルマ方面の戦局悪化に伴いタイのランパンに進出したが、同地で終戦を迎えた。以上から、庭の北側からラバウルを見つめている石々は敗戦後帰国した沢田茂中将、北野憲造中将、木村松治郎中将がモデルとしてふさわしいと思う。馬場正郎中将の義理兄弟は海軍軍人なので庭の主旨と異なりモデルとなっていないと思う。山下奉文大将は上述した庭の西南の石だと思う。第四師団隷下の部隊は歩兵第8連隊(大阪)、歩兵第37連隊(大阪)、歩兵第61連隊(和歌山)、捜索第4連隊 (金岡)、野砲兵第4連隊 (信太山)、工兵第4連隊 (高槻)、輜重兵第4連隊 (金岡)、師団通信隊、師団兵器勤務隊、師団衛生隊。歩兵第8連隊長は森田春次大佐(連隊長任期開始1941.7.5 -)、藤森茂中佐(1944.11.19 -)、歩兵第37連隊長は小浦次郎大佐(1941.3.1 -)、中村淳次大佐(1943.5.2 -)、細川志道大佐(1944.6.21 -)、歩兵第61連隊長は、鵜沢尚信大佐(1895年~1980年;1940.7.1 -)、佐藤源八大佐(1893年~1977年;1941.10.15 -)、門松正一大佐(1945.6.8 -)、駒沢貞安大佐(1945.8.16 -)、尚、第61連隊は1944年ビルマで撤退中の部隊を援護しつつ最後尾で激戦を繰り広げた。馬場正郎中将が第四師団長を勤めた期間(1943年9月25日~1944年12月26日)直属の部下だったのは歩兵第8連隊長 森田春次大佐、歩兵第37連隊長 中村淳次大佐、歩兵第61連隊長 佐藤源八大佐ら三名で庭石のモデルとなっていると思う。第四師団隷下の他の連隊などはWikipediaに記事がなかったが、それら連隊長、隊長もモデルとなっていると思う。基本的に大阪に作られた第四師団長 馬場正郎中将の追悼をモチーフとした庭なので、大阪人の共感が得られるものを作ったはずで、大阪出身の下士官、兵隊もモデルにしていると思う。以楽公園とラバウルの象徴であるタブルブル山山頂とを線で結ぶと、線の中間あたりでマリアナ諸島のロタ島を通過する。この線を以楽公園の反対側に伸ばすと元伊勢 籠神社の近くに到達する。江戸時代の作庭ならば池の中心にロタ島を模した石を置いたことだろう。ピッタリではないが背後に籠神社があるということは、枯瀧は籠神社を泉とする聖水の瀧という意味なのだろう。軍人達にとって「以楽」とは何なのだろうか。作戦の成功を悦び合うことなのだろうか。戦争が終わり駐屯地で学習と訓練生活に明け暮れることなのだろうか。この庭の北側に置かれた石々(無事に帰国できた将兵達)は太平洋戦争を偲び談笑しているようでもあり、その楽しみを以て馬場正郎中将処刑の悲しみを解消しようとしている。岸和田城庭園(八陣の庭)は日露戦争参戦者で第四師団長となった方々の記念庭園、こちらは太平洋戦争中に第四師団に所属された方々の記念公園だと読んだ。