松尾神社庭園

石の鳥居を潜り参道を少し進んだところに庭入り口がある。入口から見ると多くの庭石が荒々しく迫ってくるが、庭に入り、そびえ立つ一つ一つの庭石を見て回ると、それぞれの石が優しく迎え入れてくれるような温かみがある。庭の中心は須弥山石組でそれ以外のそびえ立つ石々は須弥山の石組を見守っている。しかし須弥山にそびえ立つ中心石が庭の主人公ではない。その隣の鶴石、山裾にそびえ立つ石、庭の奥に座り庭を見据えている石、それぞれに神々しさがある。上面が平らな神の着座石も多いので神の通り道の下にある庭だと感じる。庭は(三重)北畠氏館跡庭園と同じく杉の大木で封印されている。戦国時代歴史を封印した庭であり、誰がこの庭を作り上げたのかよく判らなくなっている。神社境内には「武家書院の庭と考えられ、延命山尊勝寺の庭園とも、また六角佐々木氏の配下であった建部氏邸宅の庭園とも」と書かれた説明文があった。1565年(永禄8年)永禄の変で室町幕府13代将軍 足利義輝(1536年~1565年)が三好軍に攻められ殺害された。(奈良)興福寺一乗院門跡の僧侶であった義輝の弟、義昭(1537年~1597年;後の室町幕府第15代(最後の)将軍)は三好軍側に捕縛された。三淵藤英、細川藤孝兄弟及び一色藤長らが義昭を救い出し奈良から脱出させた。義昭は観音寺城主 六角義賢(1521年~1598年)を頼ろうとしたが、六角義賢が三好三人衆と通じていることを察し、朝倉義景を頼り越前へと移った。1568年(永禄11年)観音寺城の戦いに勝利した織田信長は当地から六角氏を追い出した。兵火で尊勝寺が衰退した。尊勝寺の鎮守であった松尾神社も衰退した。庭園入口の説明文に「足利義昭が近江の(六角)佐々木義賢を頼ったことがあり、将軍を迎えるためにこの庭を造ったのではないかとも言われている。」とあるが、白黒をハッキリとさせる織田信長の性格で追い出した六角義賢、あるいはその配下が作った庭を大切に守り続けられるものだろうか。安土城の膝下で六角氏の庭を残すこと自体が不自然だ。1576年(天正4年)この庭から直線約6.5㎞離れた安土山で安土城の築城が開始され、仏石、墓石までもが供用されたが、ここの庭石の一部が転用石とされたようには見えない。むしろ安土城の築城時に改修、もしくは作庭されたのではないだろうか。安土城に松尾大神が祭祀されていた伝承があるので、織田信長がこの庭を作った仮説を立ててみた。現在の松尾神社は1775年(宝暦5年)に松尾大社から大山杭咋神(おおやまくいのかみ)の御分霊を奉迎して設けられたもの。鎮守神(山の地主神)を庭に隣接させて祀ることで、封印した庭が将来にわたり破壊されることのないようにしたと読める。この地が神の通り道の下にあるか、歴史事件を結びつけた線の下にあるから封印されたと読みグーグル地図上で神の通り道を探し、歴史事件場所を結んで見た。諏訪大社上社本宮境内にある大国主命社と石清水八幡宮を結ぶと当神社に隣接する稲荷神社を通過した。江戸城天主台と下鴨神社本殿を結ぶと当神社に隣接する稲荷神社を通過した。江戸城天主台と(京都)仁和寺御殿を結ぶと真如寺本堂北側、平野神社境内、下鴨神社境内北端部分、詩仙堂庫裏、坂本城跡、そして当神社を通過した。東西方向に細長い(京都下鴨神社)糺の森と上野寛永寺及び上野東照宮を結んだ神の通り道の下に当神社、庭がある。江戸幕府がこの庭を潰せなかったのは幕府存在にかかわる神の通り道の下に当神社があったからではないのだろうか。織田信長が焼き討ちした比叡山延暦寺境内の東塔と(横浜)総持寺法堂を結んだ線は、日吉大社西本宮、当神社、織田信長が六角義賢攻撃の一環で燃やした百済寺を通過した。織田信長がこの庭を改修した仮説を確かめるため、岐阜城天守閣中心と(宇治)槙島城跡を線で結ぶと当神社の本殿を通過した。1573年(元亀4年)織田信長は槙島城に籠城した足利義昭を攻め降伏させ、室町幕府を終わらせた。岐阜城は織田信長の居城で、槙島城の戦いの出陣城でもある。槙島城を陥落させてすぐ、織田信長は年号を天正に変更させるほどの征夷大将軍以上の権力を得た。それから本能寺の変(天正10年)までの戦は戦国時代終結への消化試合だと読める。本能寺跡の石碑と小牧城の信長居館跡を結んだ線は当神社本殿の北約45mを通過した。織田信長の葬儀が行われ墓所がある大徳寺、その山門(千利休切腹の一因の門)と清州古城跡に立てられた織田信長・濃姫像を結んだ線は当神社を通過する。これら織田信長に関わる線がこの神社でクロスするのは偶然ではありえない。以上のことからこの庭は織田信長が改修し、或いは作庭し、江戸時代の修繕を経て杉の木で封印されたと読んだ。織田信長が作った庭で現存するのはこの庭が唯一なのかも知れない、歴史の証言庭園ではないかとも思う。織田信長が安土城を築城した当時の情勢を庭に画いたとして、人物を庭石に当てはめてみた。庭の一番奥(西南端)に坐す石の裏から庭を眺めた。織田信長を示すのは庭中心石(須弥山にそびえ立つ右端の石)、その左側に立つ鶴石と鶴島石組は徳川家康とその家臣団。両者が一緒になって日本統一した姿が画かれている。須弥山、鶴島から通路を挟み隔たったところ、山裾に立ち両者石を見つめる石は正親町天皇。そして庭の一番奥に坐し庭全体を見つめている石は戦国時代を終わらせるため、河内源氏(足利氏、今川氏、武田氏、徳川氏)を織田信長に整理させ、まとめ上げさせ、徳川幕府を成立させるシナリオを書き行動した真の権力者(おそらく武田信玄)だと読んだ。織田信長が徳川幕府成立への歴史を正直に画いていたので幕府はこの庭を潰せず当神社を建て杉を植え永久封印したのだろう。