小堀遠州「虎の児渡し」庭園
太陽光を反射する白砂が方丈内を照らす庭だが、白砂は真っ白ではない。青空と東山の緑を引きたてる灰色を含んだ白砂だが、方丈庭園を囲む築地塀は白壁でなく、格式高い5本筋が入った青みを帯びた壁なので、白砂を水深ある海に流れる海水と見せている。築地塀の青色は青空を表現しているのだろう。青色の築地塀の上辺、銀灰色の瓦の上に頭を出すハクモクレン、西側の法堂、東南側の本坊の流線形の屋根、東山が借景となっている。東山とその上空の青空、雲が広い視界の中に流れている。借景庭園は単純構成、その基本通りマツ、ツバキ、カエデ、サツキ、ナンテンと季節を表現する最小限の樹木のみを植栽している。大小6個の庭石にて親虎と子虎を表現している。母虎は子を大切にする、虎の児渡しのように客人を肉親のように思い、大切にすることを表現しているので心地良い。長時間座って鑑賞している人が多いのも心地良さによるものだろう。単にこの庭を真似し他の場所に築庭してもここまで美しく、心地良くなるはずがない。南禅寺の仏法に包まれた地において、遥拝を用い神仏が集まる庭にし、庭にいろいろな思いを込め、人が集まる庭としたからだろう。南禅寺の大方丈、その前庭の築地塀、南禅寺鐘楼・南禅院方丈、庫裏は西に釜山の梵魚寺を、東に小國神社御本殿を遥拝している。釜山の梵魚寺中心と小國神社御本殿を結ぶ神佛の通り道は兵庫県宍粟市、伊和神社-二条城天守-南禅寺金地院・南陽院・天授庵・鐘楼・南禅院方丈・高徳庵-大池寺本堂-三重県鈴鹿市、椿大神社を通過する。梵魚寺は南北に広く、瀧宮社は南北にいくつかの末社を擁しており、南禅寺、二条城は大規模なので、大きな神佛の通り道が形成され、大方丈と庭はその中に包まれている。梵魚寺の北側の青蓮庵の仏塔を起点に小國神社御本殿を結ぶ神佛の通り道は大方丈前庭園を通過するので、方丈に至る廊下から方丈と築地塀に沿い、西側の細長い庭を鑑賞することは小國神社御本殿を背に、梵魚寺の仏塔を遥拝することに通じ、南禅寺の仏法を送り届けることに通じている。庭が借景としている南禅寺法堂、その先の三門、大方丈西北の専門道場は釜山、甑山倭城・釜山鎮城を遥拝しているが、南禅寺法堂、三門の中心を結ぶ線を西に伸ばすと二条城天守がある本丸石垣の南辺-木島坐天照御魂神社(蚕ノ社)-広隆寺-車折神社-鹿王院-天龍寺境内を通過し、釜山鎮城、そして甑山倭城中心に到達する。二条城の東西方向に伸びる外堀と内堀、その石垣、天守台、二の丸御殿を含む二条城全体の建屋は甑山倭城、釜山鎮城を遥拝しており、二条城全体で西に甑山倭城、釜山鎮城、上記した京都の寺社を、東に南禅寺を遥拝している。南禅寺法堂と三門を結ぶ東西方向に伸びる参道、三門から西側の階段までの短い参道、法堂と三門の北側と南側の道路は釜山の加徳倭城を指し示している。三門のすぐ西側の階段から勅使門までの間の参道はブッダガヤの大菩薩寺を遥拝している。グーグル航空地図で判別しにくいが、勅使門はブッダガヤの大菩薩寺を遥拝しているようにも見えるし、草梁倭館跡(現在の龍頭山公園)を遥拝しているように見え、遥拝先が確定できなかった。江戸時代、南禅寺は臨済宗僧侶を統括し、対馬で勤務する朝鮮修文職を選出した。幕府の命を受け、清朝・李氏朝鮮との外交文書の翻訳、中国・朝鮮貿易の監視を行うエリート僧侶を臨済宗全体で育成していた。清と朝鮮との外交、貿易拠点だった草梁倭館は甑山倭城・釜山鎮城のすぐ南に位置し、甑山倭城・釜山鎮城から梵魚寺までは直線距離約16㎞と近い。以上から南禅寺は草梁倭館を中心にその周囲にある梵魚寺、甑山倭城、釜山鎮城、加徳倭城に佛気を送り、草梁倭館において順調な外交、貿易が行われることを祈り続けていたと読んだ。南禅寺各建屋の南方向の遥拝先は、勅使門、大方丈、そして三門の東と西にある南北方向の道は新羅と縁深かった神功皇后の陵を遥拝している。三門、法堂、小方丈とその北隣の建屋、龍渕閣及び小方丈から龍渕閣につながる廊下、南禅寺専門道場及び本坊は奈良、百済寺三重塔を遥拝している。前回、百済寺三重塔の記事で書いたが、百済寺三重塔は本堂と春日若宮神社を従え対馬海峡の海上交通安全を祈願する目的を持っている。以上のことから江戸時代、南禅寺は百済三重塔、二条城と共に、幕府の外交と貿易が順調に行われるよう祈願を行っていたことが読めた。虎を表現した大小6個の石を庭遥拝先の釜山に向け並べ、それらの石と苔面にて対馬列島東側の海上から見た、或いは南禅寺から釜山への遥拝線に沿い上空から見た対馬風景を表現している。庭の一番左側の大きな母虎を模したと思う石は下島にある対馬列島最高峰の矢立山(海抜648.4m)、その右側の石は下島北側の白嶽(海抜518m)、更に右側の石は上島の御嶽(海抜479m)。その他の石は上島、下島以外の小さな島々、一番右端の小さな石、もしくはその石の更に右側のサツキの刈込は朝鮮半島まで直線距離で40㎞の国境の島、海栗島を表現したのだろう。苔面が築地塀に沿って西に伸びているがこれは対馬の背後に見える巨済島だろう。苔面の先、庭の右端、築地塀の隅にある5個のサツキの丸刈にて釜山を表現したのだろう。白砂は対馬海峡を表現している。対馬列島と釜山が巨済島でつながっているように見せることで、日本と朝鮮が対馬海峡、対馬列島、巨済島でつながっていることを表現している。現在の南禅寺法堂は1606年(慶長11年)に建てられたものを再建したもの。大方丈は1611年(慶長16年)に御所から移築されたもの。大方丈前庭園の作者と伝わる小堀遠州(1579年~1647年)が築庭した時期は判らないが、伽藍の向き先(遥拝先)は釜山なので、幕府は戦国時代が終わり伽藍を整備する時点で南禅寺に外交、貿易の管理をさせることを想定していたと読める。1635年(寛永12年)朝鮮外交を任されていた対馬藩で起きた柳川一件が幕府の手で解決されるが、朝鮮外交に不可欠な漢文知識に精通し、人脈を持っていた柳川調興らを追放した。それ以降、幕府は漢文知識に精通している臨済宗僧侶を朝鮮修文職に任じ対馬に派遣し外交文書作成や使節の応接、貿易の監視などを行わせた。これらから1603年(慶長8年)の徳川幕府開始時点で、幕府は外交、貿易の管理を臨済宗僧侶に行わせ、派遣僧を南禅寺に統括させる考えがあったと推測した。外交、貿易は釜山の倭館において行っていたが日朝貿易の拡大で1607年からあった1万坪の豆毛浦倭館が手狭となり、1678年、10万坪の草梁倭館へ移転した。釜山市は草梁倭館で勤務した対馬人の貿易から発展した。臨済宗全体を統括していた南禅寺がとりまとめ派遣した朝鮮修文職は清朝・李氏朝鮮との外交文書を翻訳し、中国・朝鮮貿易の監視者だったので、大方丈前庭園は朝鮮修文職として派遣される僧侶へ、心構えとして見せていたのではないだろうか。虎を模した大小6個の庭石は釜山を見つめており、対馬を通り釜山に向おうとしている。朝鮮修文職が虎のように活躍すべきことを自覚させていたのではないだろうか。大方丈は南の神功皇后陵を遥拝しているので、母虎を表現した大きな石を神功皇后の権現石と見せ、子供の虎が神功皇后に助けられ海を越え対馬列島に到達したことを見せている。借景の天空、山にて宇宙の動きを感じさせ、青色の築地壁、苔面上の庭石、植栽、苔面、白砂で大海と対馬列島などを表現しているので、庭に躍動感がある。借景の大空の動き、庭の躍動感との相乗効果で、仏法が唱える宇宙の動き、自我というものがもともと存在しないことを感じさせている。そして幕府が行う施政に従うのが天下の大道、正道だと表現している。