第21代、雄略天皇を偲ぶ
大和川が奈良盆地に注ぎ込む直前の水位海抜は約97m、その近くに泊瀬朝倉宮跡がある。大和川が奈良盆地に入ると水位は急に下がり、北から流れて来る佐保川との合流地点水位は海抜約43m、生駒山系と葛城山系の間に入る直前の水位海抜は約32m、そして水位差がほとんど無い亀の瀬渓谷を通り抜け大阪平野へ流れて行く。奈良盆地内すべての川は大和川に合流するため、かつて水害が多く、あちこち湿地帯だった。泊瀬朝倉宮の時代から約二百数十年後、平城京造営の際には藤原京から造営物資を大和川、そして佐保川を通る水運ルートで運んだ。泊瀬朝倉宮の時代、大和川以北の奈良盆地を徒歩で横断するのは困難だった。大和川は江戸中期まで大阪平野に入るとすぐ石川と合流し水量を増やし、三つの川に分かれ北上し、上町台地の北側にて淀川と合流していた。ここ奈良盆地に大和川が入る直前地点は、奈良盆地や大阪平野、そして瀬戸内海への水運の起点で、ここに宮を定めた雄略天皇は吉備氏との戦い、播磨国での討伐作戦、及び新羅への派兵の際、ここを出発地点としたと思った。近くに山の辺の道があり、宮跡には伊勢に通じる道があるので陸路の要所でもあった。葛城氏との戦い、伊勢国への討伐作戦もこの地が出発地点だったのだろう。更に神体山である三輪山の山裾というのも宮にふさわしい。朝倉小学校前の歩道橋上から西を見ると正面に大和葛城山と金剛山との間の水越峠が、右に耳成山、左に天香山がある。そこらに狼煙台を置けば西方面の防衛に大いに有利なので、この地を宮に定めたもう一つの理由だと思った。ここ奈良盆地に入る直前の大和川は水量が少ない。長谷寺方面から流れて来た大和川は神体山である標高466mの三輪山と、長谷寺から望むと美しい標高525mの山と標高292mの外鎌山に挟まれた初瀬谷を通過している。風が通る初瀬谷風景を易経に当てはめると「61風沢中孚」誠意内にあり、すなおな心を育成する地と読め爽やかな地だ。但し、谷を綺麗な水が流れているので色情問題を起こしやすい暗示がある。誠意内にありの地勢から推測し、雄略天皇は多くの身内を殺し、身内の葛城氏、吉備氏を攻めたので人々に恐怖を与え続けたが、一言主大神が名乗りを上げるとすぐさま弓矢を下ろしたことから見て、筋が通れば手を出さない天皇だった。訴訟事、刑事事件については厳正に処理しつつ、意外と民を厳罰に処することは少なかったのではないかと思った。第21代、雄略天皇が開始した専制君主制の政治機構は第32代、崇峻天皇まで続いたがこの政治期間中、この方針は貫かれ、日本人の温和な性質はこの政策で確定したのではないかとも思った。但し、暴君だった武烈天皇の施政期間中は除外すべきだと思う。第25代、武烈天皇は泊瀬朝倉宮跡付近、十二柱神社地点で泊瀬列城宮を設けたと伝承されている。雄略天皇の恐ろしい面だけを真似、笑いながら民を殺し人々を恐れさせるも、雄略天皇とは異なり軍事に力を入れた様子はなく、すべての酷刑を参観し、淫靡な遊びを好んだがため評判は良くない。一言主大神が雄略天皇を見送った地と伝承される長谷山口坐神社を流れる大和川の水量は上記の写真のとおり少ない。水量が少ないので当時から橋が架かり、都の出入り口となっていたのではないかと思った。この記事を仕上げるために雄略天皇丹比高鷲原陵を訪れた。第23代、顕宗天皇は雄略天皇に殺された父親の復讐のため、雄略天皇陵の破壊を兄に命じたが、兄は一部を破壊したのみで撤収し、弟の顕宗天皇を諫めたと伝えられていることが真実だと思えるように、濠に囲まれた島泉丸山古墳と、濠の外にある島泉平塚古墳の二つの古墳からなり、前方後円墳の方墳と円墳とが切断された形になっている。現在は周囲に住宅が建ちならび島泉平塚古墳の拝所から二上山、大和葛城山、金剛山がほとんど見えなくなっているが、田園風景が広がっていたころは神が宿る三つの山が良く見える地点に拝所があり、拝所を囲む枠の両サイドのラインを伸ばすと泊瀬朝倉宮跡に至るので、拝所で泊瀬朝倉宮跡を背にし、神宿る二上山、大和葛城山、金剛山に見守られながら礼拝するよう設計されている。島泉丸山古墳と島泉平塚古墳の中心を結んだ線を伸ばすと天香久山頂上の國常立神社に至り、両地の間で神の通り道が形成されている。この神の通り道は第23代、顕宗天皇もしくは第25代、武烈天皇のいずれかの真陵だと考古学者の白石太一郎先生が唱えられた狐井城山古墳を通過している。拝所から望む丹比高鷲原陵は他古墳の雰囲気とは異なりヤクザ文化と同じ暗さを秘めている。この暗さは近くに火葬場と墓地があるからなのかも知れないが、この雰囲気から雄略天皇はヤクザの親分のような人柄だったのではないかと想像し、誠意内にある親分と子分の関係を基本とするヤクザの原点は雄略天皇かも知れないと思った。