故事「棠(やまなし)の愛」から甘棠園(かんとうえん)と命名され、「立派な為政者に対し深い愛情と敬意を捧げること」の意味通り、書院は南北朝を統一した(京都)後亀山天皇嵯峨小倉陵と100万石を超える加賀前田家の居城、金沢城の三十間長屋の少し西側(玉泉院丸庭園)を遥拝し、両者を結んだ線は書院など建屋を貫いている。両聖地を結んだ線下には北丈競山の稜線-(一乗谷)西山光照寺跡-金ケ崎城跡-当園の書院など建屋-(当園が借景としている)野坂岳頂上付近-京都五山送り火鳥居形があり、この神の通り道の両側にも多くの寺社があるので、書院内から庭を通し野坂岳を直接拝むことは後亀山天皇を拝むこと、神々が通る道を眺めること、庭に降臨した神々を想像することに通じている。当初は邸宅を囲む周濠があり、その外側に松並木があったので、当初から館と庭に神が宿ることを目指していたことが読み取れる。天、山(野坂岳)、山(庭の築山)、沢池を見せる庭なので、天と山にて風を感じさせ、沢の上に風が吹く「61風沢中孚(ふうたくちゅうふ)誠意内にあり」を庭に画いたと読んだ。柴田氏は藩の支持の下で新田開発を行い、書院は小浜藩主休憩所だったので、庭に一点の曇りもない誠意をもって藩主に仕える意味を持たせたのだと思う。借景の野坂岳を大きく高く見せるために池の掘り込みは深く、高く細長い築山の上にそびえているような位置関係としている。更に松と松の間、松の陰の中に明るい空を見せ、その空の中に野坂岳を沈ませるように見せることで心に沁みる見せ方としている。築山に多くのサツキの丸刈りを穏やかな波のように配し、丸刈りの頭を平らに刈り上げている。立石で頭が尖った石は少なく、ほとんどの立石の頭の先端は丸みを帯びている。上部が平らな神の着座石もいくつかある。これらの相乗効果で全体的に穏やかになっている。(信仰山)野坂岳は自らの分をわきまえ、背伸びすることなく、嘘つくことなく、自然に任せておれば美しくなることを見せている。サルスベリと蝉の鳴き声が夏の山に趣を添えていた。