赤岩山を模した庭
宮津藩で酒造業・廻船業・和糸問屋などを営んでいた三上家の住宅が、幕末、幕府巡見使の本陣に指定され、1837(天保8年)庭座敷棟を増築された。庭は宮津藩御用庭師の江戸金の作庭と伝えられる。座敷内、廊下から鑑賞し、或いは露地として使用される庭。幕藩体制の時代なので、武家が使うような石を使わない、飴のような形をした海石を多く用いた庭となっている。コウバイ、キンモクセイ、サツキ、ツツジ、カキツバタ、アジサイなど花が美しい植物が目に入った。比較的狭い庭だが細長いので奥行があるように感じる。築山と池とを組み合わせ、豪華なマツを配し、庭の中心石をそびえ立たせているので、富を誇示し、花を楽しむ庭に見える。奥座敷と中心石とを結んだ線をそのまま南南東方向に伸ばすと当地の信仰の対象である赤岩山頂に到達した。赤岩山頂にはご神体の大岩(赤岩権現)があり、山頂付近から天橋立を望むことができるので、この庭の中心石はそのご神体の大岩を模したもの、赤岩山を遥拝し、赤岩山の精気を取り込む庭だと読んだ。奥座敷から庭を鑑賞すると嫌でも客人用の厠に目が止まってしまう。当然ながら、厠へ向かう廊下からも庭が鑑賞できる。厠を使って手洗いする際にも庭が楽しめる。この庭の二つ目の特徴は厠を取り込んだことだと思う。厠掃除をこまめにしないと匂いが庭に充満する構造となっている。庭石は飴のように溶けたように見える海石を多用しているので、見方によってはとろけたような海石の石組みが汚物に見えてしまう。1838年(天保9年)に宮津藩を視察した幕府巡見使をからかう為に造った庭でないのかとも思った。1868年(慶応4年・明治元年)西園寺公望が宮津藩受取りのため三上家住宅を本陣とした際も、宮津藩との交渉は簡単に済まないことを暗示させる役割を果たしたことだろう。交渉を早々に打ち切らせるために、厠の清掃を十分に行わなかったことも考えられる。厠を見ながらの食事と庭鑑賞、露地を通り茶室に行く際に厠を幾度も見せられ、厠のすぐ隣で茶会が行われる設計がされている。茶室と厠近くの貴賓用の風呂を4人しか使っていないのも意義深い。この庭は歴史証拠としての価値が高いと思った。