佛庭のような境内
東西一対に立つ西塔と東塔とは東西真方角ラインではなく、真東に向かって約9度南の方角を指している。そこで二つの塔の中心を結んだ線を延長してみると藤原宮跡(鴨公神社)にピッタリと到達した。その線を反対方向に伸ばすと西の(釜山)草梁倭館跡敷地に到達した。創建当時、草梁倭館跡敷地にどのような施設があったのか判らないが、釜山は任那(414年~562年)の港湾があった地域で、日本と朝鮮半島を結ぶ重要拠点地であった。西塔から東塔を望むことは藤原宮を遥拝することにつながり、東塔から西塔を望むことは朝鮮半島から対馬に渡る拠点地を拝することになる。それらのことから當麻寺は694年末に飛鳥浄御原宮から藤原宮に遷行し、710年に平城京に遷行するまでの期間中に創建されたと推測した。藤原宮から見て重なる二つの塔の方角は北に約9度の方角なので、二つの塔に太陽や月が沈む時期は夏至に近い季節となる。西塔から東塔を見て、東塔に太陽や月が昇る時期は冬至に近い季節となる。飛鳥寺は6世紀末から7世紀初頭にかけて造営され、法隆寺は607年創建なので、當麻寺は それらより約1世紀後に創設されたことになる。壬申の乱(672年)の戦場跡地なので供養の意味を込めたのかも知れない。當麻寺は多数の遥拝線の中にある。(高野山)弘法大師御廟と(滋賀)慈眼堂を線で結ぶと中之坊剃髪堂を通過し、宇治上神社、近江神宮境内を通過した。出雲大社と飛鳥寺西方遺跡を線で結ぶと、弘法大師堂の北側(當麻寺境内)、橿原神宮、甘樫丘頂上付近を通過した。(対馬)和多都美神社と耳成山山頂近くの耳成山口神社を線で結ぶと西塔を通過し、東塔の少し北側、中之坊庭園(香藕園)が借景としている山裾を通過した。(対馬) 海神神社と耳成山口神社を線で結ぶと奥院方丈を通過した。耳成山口神社から和多都美神社と海神神社とを同時に遥拝すると、その間にスッポリと當麻寺があるような位置となっている。更におもしろいことに耳成山口神社と(インド)ブッダガヤの大菩提寺とを線で結ぶと弘法大師堂の北30m未満、境内の北端を通過した。約5千キロ離れた地点を結んだ線が境内を通過すること自体希少だ。耳成山から見た當麻寺はブッダガヤの大菩提寺を遥拝する目印となっている。(淡路島)伊弉諾神宮と(奈良)磯城瑞籬宮跡を線で結ぶと西南院、護念院、中之坊それぞれの書院を通過した。(羽曳野)応神天皇陵中心と檜隈寺跡(於美阿志神社)を線で結ぶと、奥院方丈、本堂、中之坊書院、茶室、庭園(香藕園)を通過した。(羽曳野)日本武尊白鳥陵古墳と(奈良)石舞台を線で結ぶと、弘法大師堂と千仏院を通過した。本堂と那智大社を線で結ぶと玉石神社三社稲荷大明神、竹内古墳群を通過した。金堂と上賀茂神社権殿を線で結ぶと二条城本丸中央を通過した。金堂と清和天皇の父、文徳天皇田邑山陵を線で結ぶと、石光寺建屋群中央、武烈天皇傍丘磐坏丘北陵背後の森、石清水八幡宮本殿を通過した。1300年以上の歴史を乗り越えてきた寺院なので各建屋は色々なところを遥拝している。東塔、西南院、護念院、宗胤院(そいにん)の各建屋は北の若狭彦神社上社に向けて建てられ、東塔、護念院は東の伊勢神宮内宮御正殿に向け、西南院は東の安倍文殊院に向け、宗胤院は安倍文殊院近くの安倍寺跡に向け建てられている。西塔、金堂、講堂、本堂、竹之坊、中之坊書院、庫裏、剃髪堂の各建屋は北に石清水八幡宮本殿を、西に(対馬)和多都美神社と海神神社に向け建てられている。更にこれら建屋は海神神社のすぐ北側を通り越し(インド)ブッダガヤの大菩提寺にも向き、ブッダガヤの大菩提寺も遥拝している。奥院方丈、本堂、阿弥陀堂は北の比叡山延暦寺向け建てられている。来迎院は南の(高野山)弘法大師御廟に向け建てられている。弘法大師堂は北野天満宮に向け建てられているので、弘法大師堂で礼拝することは北野天満宮を遥拝することにつながっている。極楽院は上賀茂神社権殿に向け建てられている。當麻寺東大門(仁王門)、千仏院は北の知恩院法然上人御廟に向き、西の藤原京跡(鴨公神社)に向け建てられている。よって東大門(仁王門)は藤原京跡に向け開かれている。藤原京跡を背にして東大門(仁王門)を登ると門の間から絵を見るように二上山が拝める。峰が三尊にも見える。振り返って東大門の端から真東の方角を望むと見えにくいが藤原京の北にある耳成山が望める。地図で見ると途中で数カ所切れているが、當麻寺の東大門から東に略真っ直ぐに伸びる耳成山に通じる道が有ったように見える。耳成山は古代に造営された上円下方墳だとの説があるので、創建当時は東大門から真東の耳成山まで直線道でつながれていたのではないのだろうか。東大門から耳成山を見て日の出、月の出の位置の変化が季節ごとに読めるように設計されている。創建当初の當麻寺は三論宗だったようだが、空海(774年~835年)から真言宗を学び改宗。1370年(応安3年)京都知恩院が當麻寺境内奥に往生院(現・奥院)を創建し、真言宗と浄土宗が同居する寺となった。世間で言えばA社がB社の子会社を乗っ取ろうとしたが強力な2部門が猛反対をしたため完全乗っ取りができず、A社とB社の合同子会社が成立したようなもの。現在、真言宗五ヶ院(中之坊・西南院・竹之坊・松室院・不動院)と浄土宗八ヶ院のうち二ヶ院(護念院・奥院)が當麻寺の護持・運営に携わっている。いわば異なる親会社を持つ子会社群(2系列の中小企業群)が一つの会社を経営しているようで会社存続の智慧が含まれているようで人々の関心を集めている。神々の通り道である多数の遥拝線の中にある多数の建屋群がそれぞれに遥拝先を持つためか、主要建屋がブッダガヤの大菩提寺を遥拝し、本堂、剃髪堂で拝むことはブッダガヤの大菩提寺を遥拝することにつながっているためか、南と西に山が迫る構造によるものか境内が佛庭のような形となっている。1300年以上の歴史を乗り越えてきた智慧が散りばめられているように感じる。